玉勝間 / 五の巻 庄屋
今の世田舍にて、村の長を庄屋と云ふ。文粹二の卷なる、延喜二年三月十三日の官符の文に、新立庄家、多施苛法と有り、類聚三代格にも出たり。これその領主より、庄家と云ふを立チ置て、其所の事を執せしなり。
新字:今の世田舎にて、村の長を庄屋と云ふ。文粋二の巻なる、延喜二年三月十三日の官符の文に、新立庄家、多施苛法と有り、類聚三代格にも出たり。これその領主より、庄家と云ふを立チ置て、其所の事を執せしなり。
書き下し
今の世田舎にて、村の長を庄屋と云う。文粋二の巻なる、延喜二年三月十三日の官符の文に、新たに庄家を立て、多く苛法を施す、と有り、類聚三代格にも出でたり。これその領主より、庄家と云うを立て置きて、その所の事を執せしなり。
現代語訳
今の世、田舎で村の長を「庄屋」という。『本朝文粋』巻二にある延喜二年(902)三月十三日の太政官符の文に、「新たに庄家を立てて、多く苛酷な法を施している」とあり、『類聚三代格』にも載っている。これはその領主から、庄家というものを立て置いて、その土地のことを取り仕切らせたのである。
解説
江戸時代の村の長「庄屋」の名の由来を、平安時代の太政官符に求めた段である。延喜二年の官符は、いわゆる延喜の荘園整理令にかかわるもので、新たに荘園の管理所である庄家を立てて、厳しい取り立てをすることを戒めている。宣長は、荘園の領主が現地に庄家を置いて土地の事務を執らせたのが、のちに村をまとめる役の名になったと説明する。宣長の生きた松坂の周りにも庄屋はいた。身近な役職の名前が、千年近く前の荘園制度にさかのぼることを、官符の一文から示したのである。制度が滅びても名前だけは形を変えて生き残る。言葉を手がかりに、社会の仕組みの移り変わりをたどる考証である。
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 畿内七道のよみ又郡司のよみ然ればコホノミヤツコとは、郡司をいずれも云うべく、大領は、オホイコホノミヤツコと有るぞ、あたりて聞えたる。書紀の訓、大領は、コホリノミヤツコとも、オホミヤツコとも、コホノミヤツコとも有り。おおみやつこは、いかがなる訓なり。少領はスケノミヤツコ。
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