玉勝間 / 十二の巻 童名に某丸と云ふ事
同記に、寬仁三年二月十六日、千壽丸、於家侍所令加元服、(名號爲時)と有り。童名に某丸と云ふ事、そのかみも有しなり。
新字:同記に、寛仁三年二月十六日、千寿丸、於家侍所令加元服、(名号為時)と有り。童名に某丸と云ふ事、そのかみも有しなり。
書き下し
同じ記に、寛仁三年二月十六日、千寿丸、家の侍所に於て元服を加えしむ、(名号は為時)と有り。童名になにがし丸と云う事、そのかみも有りしなり。
現代語訳
同じ記(小右記)に、「寛仁三年(1019)二月十六日、千寿丸を家の侍所で元服させた(名は為時とした)」とある。童名(わらわな)を何々丸と言うことは、その当時もあったのである。
解説
子どもの名を「何々丸」と付ける習わしが、平安中期にすでにあったことを示す段である。『小右記』には、藤原実資の家で千寿丸という少年が元服し、為時という名を与えられた記事がある。元服は成人の儀式で、幼名を改めて実名(諱)を名乗る。牛若丸や日吉丸のように、武家の子の幼名に「丸」を付けるのはよく知られているが、その習いは平安の貴族の家にもあった。「丸」はもとは自分を指す「麻呂」から来たとされ、親しみや、魔除けの意味を込めたとも言われる。宣長は由来には立ち入らず、「その当時もあった」と確かめるだけにとどめている。宣長自身も幼名を富之助と言い、後に名を改めている。
関連する章句
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