玉勝間 / 五の巻 古今御伝授
後奈良ノ天皇、享祿元年十一月十六日、こきんの御傳じゆ、逍遙院申さるるよし、御湯殿ノ記に見ゆ。
新字:後奈良ノ天皇、享禄元年十一月十六日、こきんの御伝じゆ、逍遥院申さるるよし、御湯殿ノ記に見ゆ。
書き下し
後奈良の天皇、享禄元年十一月十六日、こきんの御伝じゅ、逍遥院申さるるよし、御湯殿の記に見ゆ。
現代語訳
後奈良天皇が、享禄元年(1528)十一月十六日に、古今伝授を逍遥院(三条西実隆)から受けられたことが、『御湯殿上日記』に見える。
解説
後奈良天皇が三条西実隆から古今伝授を受けたことを、宮中の女官の日記『御湯殿上日記』から書き留めた段である。古今伝授とは、古今集の難解な語句の解釈を、師から弟子へ秘伝として授けるもので、室町時代には歌道の権威を支える儀式になっていた。実隆はその正統の継承者として知られる。宣長はこの記録を事実として淡々と記すだけだが、宣長自身は秘伝で学問を囲い込むことに批判的だった。古今集は誰でも本文を読んで意味を考えればよい、というのが宣長の立場で、後に『古今集遠鏡』で古今集の全歌を口語に訳してみせたのもその表れである。天皇までが秘伝を受けた時代の記録を置くことで、学問の開き方の違いが浮かび上がる。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 長歌は今はたやすくは詠まぬ事と云ふ事逍遥院の大臣の、きぬかずきの日記の跋に、事のついでに申し出で侍る。長歌と云う物、この頃となりて、たわやすく詠まぬ事のようになれるは、いかなる故の侍るならむ、いと覚束なき事なりと見ゆ。
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『玉勝間』九の巻 今様合百練抄に、承安四年九月一日、太上法皇の御所(法住寺殿)に於て今様合の事有り、堪能の輩卅人を撰び定め、十五箇夜の間、毎夜一番、雌雄を決せらる。師長・資賢等の卿判者たり。十三日、仙洞の今様合の次でに御遊有り、上皇今様を歌わしめ給う、希代の美談なり。
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