玉勝間 / 五の巻 からざえ
愚管抄に、內大臣伊周、人がら、やまとこころばへは、わろかりける人なり、からざえはよくて、詩などいみしく作られけりと有り。からざえと云へること、めづらし、漢學を云へるなり。すべてざえとは、物語書などにも、學問の有る事をぞ云へる。
新字:愚管抄に、内大臣伊周、人がら、やまとこころばへは、わろかりける人なり、からざえはよくて、詩などいみしく作られけりと有り。からざえと云へること、めづらし、漢学を云へるなり。すべてざえとは、物語書などにも、学問の有る事をぞ云へる。
書き下し
愚管抄に、内大臣伊周、人がら、やまとこころばえは、わろかりける人なり、からざえはよくて、詩などいみしく作られけりと有り。からざえと云えること、めずらし、漢学を云えるなり。すべてざえとは、物語書などにも、学問の有る事をぞ云える。
現代語訳
『愚管抄』に、「内大臣伊周(藤原伊周)は、人柄や大和心の働きはよくない人であった。唐才(からざえ)には優れていて、漢詩などは見事に作られた」とある。「からざえ」という言い方は珍しい。漢学のことを言っているのである。そもそも「ざえ」とは、物語の書などでも、学問があることを言っている。
解説
慈円の『愚管抄』に見える「からざえ」という語を拾った短い考証である。藤原伊周は藤原道隆の子で、叔父道長と権力を争って敗れた人物だが、漢詩文の才で知られた。慈円はその伊周を、漢学の才はあるが大和心の働きは悪いと評している。宣長が目をとめたのは「からざえ」という言い方で、「ざえ」が学問、とりわけ漢学を指すことを確かめている。平安の物語でも「才(ざえ)」は漢学の素養を言い、実務や人情の機転を言う「大和心」と対にされることが多い。漢の学問と日本の心を分けて考える見方が、すでに中世の史論にあることを示す例として、宣長には興味深かったのだろう。学問の才と人としての働きは別物だという古人の評価は、今も身につまされる。
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 もろこしぶみをも読むべき事から国の書をも、いとまのひまには、ずいぶんに見るぞ善き。漢籍も見ざれば、その外国のふりの悪しき事も知られず。また古書はみな漢文もて書きたれば、かの国ぶりの文も知らでは、学問もことゆきがたければなり。かの国ぶりの、よろづに悪しき事をよくさとりて、皇国だましいだに強くして、動かざれば、夜ひるからぶみを見ても、心は迷う事無し。然れども、かの国ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理を尽くしたるように、こまかに論い、よさまに説きなせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつり易く、まどい易きならいなれば、から書見むには、つねにこのことを忘るまじきなり。
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