玉勝間 / 五の巻 平太政大臣の歌
平治元年十二月、平太政大臣、まだ下らふにて、熊野に詣でられけるに、京に亂のおこりけるによりて、道より歸らるるをり、和泉ノ國の大鳥ノ宮にまうで、神馬を奉りて、詠まれけるうた、「かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大とりの神。平治物語に見えたり。此人の歌はめづらし。
新字:平治元年十二月、平太政大臣、まだ下らふにて、熊野に詣でられけるに、京に乱のおこりけるによりて、道より帰らるるをり、和泉ノ国の大鳥ノ宮にまうで、神馬を奉りて、詠まれけるうた、「かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大とりの神。平治物語に見えたり。此人の歌はめづらし。
書き下し
平治元年十二月、平太政大臣、まだ下らうにて、熊野に詣でられけるに、京に乱のおこりけるによりて、道より帰らるるおり、和泉の国の大鳥の宮にもうで、神馬を奉りて、詠まれけるうた、「かいこぞよかえりはてなばとびかけりはごくみたてよ大とりの神。平治物語に見えたり。この人の歌はめずらし。
現代語訳
平治元年(1159)十二月、平太政大臣(平清盛)が、まだ位の低かったころ熊野に参詣していたところ、京で乱が起こったので、途中から引き返すおり、和泉国の大鳥の宮(大鳥神社)に参って神馬を奉り、詠んだ歌、「わたしはまだ卵のような身だ。無事に孵り、京へ帰りついたなら、飛びかけって育て上げてください、大鳥の神よ」。『平治物語』に見える。この人の歌は珍しい。
解説
平清盛の歌を『平治物語』から書き留めた短い段である。平治の乱の報を熊野詣での途中で聞いた清盛が、引き返す道で和泉の大鳥神社に神馬を奉り、歌を詠んだ。卵を意味する「かいこ」に、京へ「帰る」と卵が「孵る」を掛け、大鳥の神の名にちなんで、ひなを育てるように自分を守り立ててくれと願う。まだ上り坂の途中にいた武将の、切迫した祈りが歌になっている。宣長が「この人の歌はめずらし」と言うのは、清盛といえば権勢と横暴で語られ、歌人として名の残る人ではないからだろう。宣長は歌を人の真心の表れと見たので、思いがけない人物の歌に出会うと書き留めずにいられなかった。人物の評判とは別に、残された言葉そのものを見る姿勢がうかがえる。
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 和泉ノ国大鳥ノ神社和泉志と云うふみに、かの国の大鳥の神社の御事を、しるせるを見るに、慶長中兵火に罹り、元禄中、僧快円、神鳳寺を域内に興し建て、寺の隅に僅かに小祠を存す、としるせるを見て、涙もこぼるばかり、悲しくぞおぼゆる。この神社は、神名帳に、大鳥の郡大鳥の神社、名神、大、月次・新嘗と見え、高き御位をも授け奉り給える御社にましますものを、その域をしも、仏どころにしなしたる、まがつひのしわざは、せんすべも無き物なりけり。さて御社は、そのかた隅に、僅かに残りてましますらむ程に、詣でては見奉らねど、思いやり奉るだに、かなしきを、かなしと見奉る人の無きは、いかにぞや。大かた国々にかかるたぐい多かるべきを、今はたまたま、これを彼の書に見あたりたるままに、余りのなげかわしさに得耐えで、かくはおどろかしおくなり。あわれかかる事に、心ざし有らむ人もがな。
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『玉勝間』四の巻 大内ノ政弘朝臣の歌大内左京大夫多々良の政弘、正五位下にて有りしほど、四位をのぞまれけれども、空しくて年へければ、「たよりなき外山に住みてしづ枝をも折ることかたき峰の椎柴、と詠まれければ、この歌をめで給いて、従四位下にぞなし給いける。程も無くて、また従上せられけるとぞ。この歌まことに、よく詠みかなえられたり。四位と椎と、仮字のたがえるは、その頃のしわざにては、云うべきに非ず。
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『玉勝間』十の巻 定家ノ中納言の詩明月記、建仁元年十月、上皇熊野御幸の供奉の所に、十五日午の時ばかり、発心門に着き、南無房の宅に宿る。この道の間、常に筆硯を具せず、また思う所有りて、未だ一事をも書かず。この門の柱に、始めて詩一首を書く、(角柱を異にす、閑所なり)慧日の光の前に罪根を懺い、大悲の道の上の発心門、南山の月の下の結縁の力、西刹の雲の中に旅魂を弔う。
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