玉勝間 / 四の巻 土佐日記の附注
土佐日記を解る物、附注とて三卷、板本にて有リ。作れる人は、野道生としるせり。始ノに讀耕齋林氏の序、次に紀氏の委き系圖、又官位、又林道春翁の書る貫之主の傳、また新撰和歌ノ序、大井川行幸和歌ノ序、などをものせ、終リに道生みづからの跋も有り。凡例に、余適見藤爲相卿手筆之本、以此爲據と云ひ、序に、得惺窩翁手筆之本、又以別本、撿其同異、粗解釋之と云へり。そもそも此日記の注は、唯だ季吟の抄のみぞ、世にはしりて弘まりて、この附注と云フ物ある事をば、知れる人いといとまれなり。今此二つをあはせ見るに、季吟の抄に云る事どもは、から書を引たる事共など、其外も、もはら此附注と異なる事無きは、ひそかに附注をとりて、書る物とこそおぼゆれ。さるに附注のみづからの跋に、萬治四年と有るを、季吟抄の終リにも、同く萬治四年としるせるは、いよいよ心得ぬ事ぞかし。こはかの道生と云ひし人の功の、世にうづもれたる事の、いとほしさに、おどろかすなり。
新字:土佐日記を解る物、附注とて三巻、板本にて有リ。作れる人は、野道生としるせり。始ノに読耕斎林氏の序、次に紀氏の委き系図、又官位、又林道春翁の書る貫之主の伝、また新撰和歌ノ序、大井川行幸和歌ノ序、などをものせ、終リに道生みづからの跋も有り。凡例に、余適見藤為相卿手筆之本、以此為拠と云ひ、序に、得惺窩翁手筆之本、又以別本、撿其同異、粗解釈之と云へり。そもそも此日記の注は、唯だ季吟の抄のみぞ、世にはしりて弘まりて、この附注と云フ物ある事をば、知れる人いといとまれなり。今此二つをあはせ見るに、季吟の抄に云る事どもは、から書を引たる事共など、其外も、もはら此附注と異なる事無きは、ひそかに附注をとりて、書る物とこそおぼゆれ。さるに附注のみづからの跋に、万治四年と有るを、季吟抄の終リにも、同く万治四年としるせるは、いよいよ心得ぬ事ぞかし。こはかの道生と云ひし人の功の、世にうづもれたる事の、いとほしさに、おどろかすなり。
書き下し
土佐日記を解ける物、附注とて三巻、板本にて有り。作れる人は、野道生としるせり。始めに読耕斎林氏の序、次に紀氏の委しき系図、また官位、また林道春翁の書ける貫之主の伝、また新撰和歌の序、大井川行幸和歌の序、などをものせ、終わりに道生みづからの跋も有り。凡例に、余適ま藤為相卿手筆の本を見る、これを以て拠と為すと云い、序に、惺窩翁手筆の本を得、また別本を以て、その同異を検し、粗これを解釈すと云えり。そもそもこの日記の注は、ただ季吟の抄のみぞ、世にはしりて弘まりて、この附注と云う物ある事をば、知れる人いといとまれなり。今この二つをあわせ見るに、季吟の抄に云える事どもは、から書を引きたる事ども、その外も、もはらこの附注と異なる事無きは、ひそかに附注をとりて、書ける物とこそおぼゆれ。さるに附注のみづからの跋に、万治四年と有るを、季吟抄の終わりにも、同じく万治四年としるせるは、いよいよ心得ぬ事ぞかし。こはかの道生と云いし人の功の、世にうずもれたる事の、いとおしさに、おどろかすなり。
現代語訳
土佐日記を解いたもので、「附注」という三巻の版本がある。作った人は野道生と記している。初めに読耕斎林氏(林読耕斎、林羅山の子)の序、次に紀氏の詳しい系図、また官位、また林道春翁(林羅山)の書いた貫之主の伝、また新撰和歌の序、大井川行幸和歌の序などを載せ、終わりに道生自身の跋もある。凡例に「私はたまたま藤原為相卿の自筆の本を見た。これをよりどころとする」と言い、序に「藤原惺窩翁の自筆の本を得、また別本によってその異同を調べ、あらあらこれを解釈した」と言っている。そもそもこの日記の注は、ただ北村季吟の抄(土佐日記抄)だけが世に行われて広まり、この附注というものがあることを知っている人はごくまれである。今この二つを合わせ見ると、季吟の抄に言っている事どもは、漢籍を引いた事どもも、そのほかも、まったくこの附注と異ならないのは、ひそかに附注を取って書いたものと思われる。それなのに、附注の自身の跋に「万治四年」とあるのを、季吟の抄の終わりにも同じく「万治四年」と記しているのは、いよいよ納得できないことである。これは、あの道生という人の功績が世に埋もれていることが気の毒で、世の注意を促すのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 松島の日記と云ふ物清少納言が年老いて後に、おくの松島に下りける、道の日記とて、やがて松しまの日記と名づけたる物、一冊あり。珍らしくおぼえて、見けるに、はやくいみしき偽書にて、むげにつたなく見どころ無き物なり。さるは近きほど、古学をする者の作れる口つきとぞ聞こえたる。すべて近き年頃は、さるいつわりぶみをつくり出ずるたぐいの、殊に多かる。ようなきすさびに、多くのいとまを入れ、心をもくだきて、世の人をまどわさんとするは、いかなるたぶれ心にか有らむ。よく見る人の見るには、まこといつわりは、いとよく見えわかれて、いちじるけれど、さばかりなる人は、いといとまれにして、えしも見わかぬ者のみ、世には多かれば、むげの偽ぶみにもあざむかれて、たっとみもてはやすなるは、いともいともかたわらいたく、かなしきわざなり。近き頃は、世の中にめずらしき書をようずるともがら多きを、めずらしきは、まことの物ならぬが多きを、さる心して、よくえらぶべきわざぞかし。菅原の大臣の書き給えりと云う、須磨の記と云う物などは、やや世にひろごりて、誰れもまことと思いたんめる、これはたいみしき偽書なるをや。斯かるたぐい数知らず多し。なずらえて心すべし。
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『玉勝間』二の巻 歌書の註を抄となづくる事昔より、歌ぶみの註を抄と云いて、その名をも多く某抄とつくる。抄の字は、註釈にはあたらざれども、もろこしよりして、仏ぶみには、その書のさまにかかわらで、記とも集とも抄とも名づけたる、つねの事なれば、歌ぶみの註を抄と云うも、もと仏書の名どもにならえる物なるべし。
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『玉勝間』二の巻 春記春記と云うふみは、春宮の大夫資房の卿のにきなり。今の世には、ただ一巻ならでは伝わらずと云えり。おのが見たりし本も、八十五ひら有りて、一冊のみなりき。
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊さてこの中右記は、中の御門の右大臣宗忠公の日記にて、寛治元年正月より、保延元年十二月までの事を記されたり、合わせて七十巻あり。然れども、のりながが見たりし本は、闕けたる所々ありしを、そののち全きは未だ得見ず。寛治の頃は、宗忠公のいまだ若くて、殿上人におわせし程の事なり。
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『玉勝間』九の巻 契沖が歌を解けるやう歌の注は、むつかしきわざにて、いささかの云いざまによりて、意も勢いも、いたくたがう事多きを、契沖は、歌を解くこと、上手にて、善くも悪しくも、云える事のすじ、よく通りて、聞こえやすし。然るにおりおり、くだくだしき解きざまの交じれるは、いかにぞや。たとえば遍昭僧正の、天津風の歌の注に、もとより風雲ともに、浮きたる物なれば、久しく吹きとずべき物には有らざるによりて、しばしと云える詞、よくかなえり、と云える類いなり。すべてかの頃などの歌は、詠みぬしの心には、さる事までを思える物にはあらず。然るをかくさまに、こまかに意を添えて解けるたぐいは、思うに、仏ぶみの注釈どもを、見なれたる癖なめり。すべてほとけぶみの注釈と云う物は、深くせむとて、えも云わずくだくだしき意を加えて、こちたく解きなせる物ぞかし。
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『玉勝間』七の巻 吉野ノ朝の公卿補任吉野の朝廷の公卿補任一巻あり、後醍醐の天皇かしこにうつらせおわしまして、延元二年より、後亀山の天皇の御代、元中九年にいたるまで、すべて三御代、五十六年の程の、公卿の昇進つぶさにしるせり、いと珍しき書なり。この書、備前の国岡山の河本某が家に有り。この河本は、備後の三郎高徳が末にて、宇喜田氏の族、河本対馬守親家と云いしが末なりとかや。然るゆえよしにてや、この書は伝え持たりけむ。今は岡山の商人なるを、あやしく世々書を集むることを好みて、すべてやまと、もろこしの諸の書ども、いとここらつどえ持たりとぞ。
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