史記 / 蒙恬列伝
趙高者,諸趙疏遠屬也。趙高昆弟數人,皆生隱宮,其母被刑僇,世世卑賤。秦王聞高彊力,通於獄法,舉以為中車府令。高既私事公子胡亥,喻之決獄。高有大罪,秦王令蒙毅法治之。毅不敢阿法,當高罪死,除其宦籍。帝以高之敦於事也,赦之,復其官爵。始皇欲游天下,道九原,直抵甘泉,乃使蒙恬通道,自九原抵甘泉,塹山堙谷,千八百里。道未就。始皇三十七年冬,行出游會稽,并海上,北走瑯邪。道病,使蒙毅還禱山川,未反。始皇至沙丘崩,祕之,群臣莫知。是時丞相李斯、公子胡亥、中車府令趙高常從。高雅得幸於胡亥,欲立之,又怨蒙毅法治之而不為己也。因有賊心,乃與丞相李斯、公子胡亥陰謀,立胡亥為太子。太子已立,遣使者以罪賜公子扶蘇、蒙恬死。扶蘇已死,蒙恬疑而復請之。使者以蒙恬屬吏,更置。胡亥以李斯舍人為護軍。使者還報,胡亥已聞扶蘇死,即欲釋蒙恬。趙高恐蒙氏復貴而用事,怨之。毅還至,趙高因為胡亥忠計,欲以滅蒙氏,乃言曰:「臣聞先帝欲舉賢立太子久矣,而毅諫曰『不可』。若知賢而俞弗立,則是不忠而惑主也。以臣愚意,不若誅之。」胡亥聽而系蒙毅於代。前已囚蒙恬於陽周。喪至咸陽,已葬,太子立為二世皇帝,而趙高親近,日夜毀惡蒙氏,求其罪過,舉劾之。
新字:趙高者,諸趙疏遠属也。趙高昆弟数人,皆生隠宮,其母被刑僇,世世卑賤。秦王聞高彊力,通於獄法,舉以為中車府令。高既私事公子胡亥,喩之決獄。高有大罪,秦王令蒙毅法治之。毅不敢阿法,当高罪死,除其宦籍。帝以高之敦於事也,赦之,復其官爵。始皇欲游天下,道九原,直抵甘泉,乃使蒙恬通道,自九原抵甘泉,塹山堙谷,千八百里。道未就。始皇三十七年冬,行出游会稽,并海上,北走瑯邪。道病,使蒙毅還祷山川,未反。始皇至沙丘崩,秘之,群臣莫知。是時丞相李斯、公子胡亥、中車府令趙高常従。高雅得幸於胡亥,欲立之,又怨蒙毅法治之而不為己也。因有賊心,乃与丞相李斯、公子胡亥陰謀,立胡亥為太子。太子已立,遣使者以罪賜公子扶蘇、蒙恬死。扶蘇已死,蒙恬疑而復請之。使者以蒙恬属吏,更置。胡亥以李斯舎人為護軍。使者還報,胡亥已聞扶蘇死,即欲釈蒙恬。趙高恐蒙氏復貴而用事,怨之。毅還至,趙高因為胡亥忠計,欲以滅蒙氏,乃言曰:「臣聞先帝欲舉賢立太子久矣,而毅諫曰『不可』。若知賢而兪弗立,則是不忠而惑主也。以臣愚意,不若誅之。」胡亥聴而系蒙毅於代。前已囚蒙恬於陽周。喪至咸陽,已葬,太子立為二世皇帝,而趙高親近,日夜毀悪蒙氏,求其罪過,舉劾之。
書き下し
趙高は、諸趙の疏遠の属なり。趙高の昆弟数人、皆隠宮に生まれ、其の母刑僇せられ、世世卑賤なり。秦王、高の彊力にして獄法に通ずるを聞き、挙げて以て中車府令と為す。高既に私かに公子胡亥に事へ、之に決獄を喩す。高大罪有り。秦王蒙毅をして法もて之を治めしむ。毅敢て法を阿らず、高の罪死に当つとし、其の宦籍を除く。帝、高の事に敦きを以て、之を赦し、其の官爵を復す。始皇天下に游ばんと欲し、九原に道して、直ちに甘泉に抵らんとし、乃ち蒙恬をして道を通ぜしむ。九原より甘泉に抵るまで、山を塹り谷を堙むること、千八百里。道未だ就らず。始皇の三十七年冬、行きて出でて会稽に游び、海上に并ひて、北のかた瑯邪に走る。道にて病み、蒙毅をして還りて山川に禱らしむ。未だ反らず。始皇沙丘に至りて崩ず。之を秘し、群臣知る莫し。是の時丞相李斯・公子胡亥・中車府令趙高常に従ふ。高雅より胡亥に幸せられ、之を立てんと欲す。又蒙毅の法もて之を治めて己の為にせざるを怨む。因りて賊心有り、乃ち丞相李斯・公子胡亥と陰謀し、胡亥を立てて太子と為す。太子已に立ち、使者を遣はして罪を以て公子扶蘇・蒙恬に死を賜ふ。扶蘇已に死す。蒙恬疑ひて復た之を請ふ。使者蒙恬を以て吏に属し、更めて置く。胡亥、李斯の舎人を以て護軍と為す。使者還りて報ず。胡亥已に扶蘇の死を聞き、即ち蒙恬を釈さんと欲す。趙高、蒙氏の復た貴くして事を用ひんことを恐れ、之を怨む。毅還りて至る。趙高因りて胡亥の為に忠計すると為し、以て蒙氏を滅ぼさんと欲し、乃ち言ひて曰く、「臣聞く、先帝賢を挙げて太子を立てんと欲すること久し。而るに毅諫めて曰く『不可なり』と。若し賢を知りて俞ほ立てずんば、則ち是れ不忠にして主を惑はすなり。臣の愚意を以てすれば、之を誅するに若かず」と。胡亥聴きて蒙毅を代に系ぐ。前に已に蒙恬を陽周に囚ふ。喪咸陽に至り、已に葬り、太子立ちて二世皇帝と為る。而して趙高親近し、日夜蒙氏を毀悪し、其の罪過を求め、之を挙劾す。
現代語訳
趙高は、趙氏の王族の遠い傍流の者である。趙高の兄弟数人はみな隠宮(宮刑を受けた者が働く場所)で生まれ、その母は刑罰を受けており、代々卑しい身分であった。秦王(始皇帝)は、趙高が力が強く、裁判の法律に通じていると聞いて取り立て、中車府令(宮中の車馬の管理長官)とした。趙高はひそかに公子胡亥に仕え、裁判の仕方を教えた。趙高が大罪を犯したことがあり、秦王は蒙毅に法に照らして裁かせた。蒙毅は法を曲げることをせず、趙高の罪は死罪にあたるとして、その宦官の籍を除いた。始皇帝は趙高が職務に熱心であることを考えて赦し、その官職と爵位を元に戻した。始皇帝は天下を巡ろうとして、九原を通ってまっすぐ甘泉に至る道を造ることにし、蒙恬に道を開かせた。九原から甘泉まで、山を切り開き谷を埋めること千八百里に及んだが、道はまだ完成しなかった。始皇帝の三十七年冬、巡幸に出て会稽に行き、海沿いに北へ進んで瑯邪に向かった。途中で病気になり、蒙毅を引き返させて山川の神に祈らせたが、蒙毅がまだ戻らないうちに、始皇帝は沙丘に着いて崩じた。その死は秘密にされ、群臣は誰も知らなかった。このとき丞相李斯、公子胡亥、中車府令趙高がいつも付き従っていた。趙高はもともと胡亥に目をかけられていたので、胡亥を即位させたいと思っていた。また、蒙毅が法によって自分を裁き、手心を加えてくれなかったことを恨んでいた。そのため悪心を抱き、丞相李斯、公子胡亥とひそかに謀って、胡亥を太子に立てた。太子が立つと、使者を送り、罪を着せて公子扶蘇と蒙恬に死を命じた。扶蘇はすでに自害したが、蒙恬は疑って、もう一度確かめたいと願い出た。使者は蒙恬を役人に引き渡し、軍の指揮官を替えた。胡亥は李斯の家来を護軍(軍の監督役)とした。使者が帰って報告すると、胡亥は扶蘇が死んだと聞いたので、すぐにも蒙恬を釈放しようとした。趙高は、蒙氏が再び尊ばれて権力を握ることを恐れ、また恨んでもいた。蒙毅が戻ってくると、趙高は胡亥のために忠義な策を献じるふりをして、蒙氏を滅ぼそうとして言った。「私の聞くところでは、先帝は長いあいだ賢者を選んであなたを太子に立てようとしておられたのに、蒙毅が『いけない』と諫めたという。賢者と知りながら立てさせなかったのなら、それは不忠であり、主君を惑わせたことになる。私の愚かな考えでは、誅殺するにこしたことはない」。胡亥はこれを聞き入れ、蒙毅を代の地の獄につないだ。それより前に蒙恬はすでに陽周に捕らえられていた。始皇帝の柩が咸陽に着き、葬儀が終わると、太子が即位して二世皇帝となった。趙高は二世にいっそう近づき、日夜蒙氏を悪く言い、その罪や過ちを探し出して弾劾した。
解説
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史記 李斯列伝蒙恬死するを肯ぜず。使者即ち以て吏に属し、陽周に系ぐ。使者還りて報ず。胡亥・斯・高大いに喜ぶ。咸陽に至りて喪を発し、太子立ちて二世皇帝と為る。趙高を以て郎中令と為し、常に侍中して事を用ふ。二世燕居し、乃ち高を召して与に事を謀り、謂ひて曰く、「夫れ人生の世間に居るや、譬へば猶ほ六驥を騁せて決隙を過ぐるがごときなり。吾既已に天下に臨めり。耳目の好む所を悉くし、心志の楽しむ所を窮めて、以て宗廟を安んじて万姓を楽しましめ、長く天下を有ちて、吾が年寿を終へんと欲す。其の道可ならんか」と。高曰く、「此れ賢主の能く行ふ所にして、昏乱の主の禁ずる所なり。臣請ふ之を言はん。敢て斧鉞の誅を避けず。願はくは陛下少しく意を留めよ。夫れ沙丘の謀、諸公子及び大臣皆疑ふ。而して諸公子は尽く帝の兄、大臣は又先帝の置く所なり。今陛下初めて立ち、此れ其の属意怏怏として皆服せず。恐らくは変を為さん。且つ蒙恬已に死すと雖も、蒙毅は兵を将ゐて外に居る。臣戦戦栗栗として、唯だ終へざらんことを恐る。且つ陛下安くんぞ此の楽しみを為すを得んや」と。二世曰く、「之を為すこと奈何」と。趙高曰く、「法を厳にして刑を刻にし、有罪者をして相坐して誅せしめ、収族に至らしめ、大臣を滅ぼして骨肉を遠ざけ、貧者は之を富まし、賤者は之を貴くし、尽く先帝の故臣を除き去りて、更めて陛下の親信する所の者を置きて之を近づけよ。此れ則ち陰徳陛下に帰し、害除かれて姦謀塞がり、群臣潤沢を被り厚徳を蒙らざる莫く、陛下則ち枕を高くし志を肆にして寵楽せん。計此より出づるは莫し」と。二世高の言を然りとし、乃ち更めて法律を為る。是に於て群臣諸公子罪有れば、輒ち高に下し、之を鞫治せしむ。大臣蒙毅等を殺し、公子十二人咸陽の市に僇死し、十公主杜に矺死し、財物は県官に入れ、相連坐する者は勝げて数ふべからず。
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史記 秦始皇本紀高乃ち公子胡亥・丞相斯と陰かに謀り、始皇の封ずる所の書の公子扶蘇に賜ふ者を破去し、而して更に詐りて丞相斯始皇の遺詔を沙丘に受けたりと為し、子胡亥を立てて太子と為す。更に書を為りて公子扶蘇・蒙恬に賜ひ、数ふるに罪を以てし、死を賜ふ。語は具に李斯伝の中に在り。行きて、遂に井陘より九原に抵る。会暑く、上の轀車臭し。乃ち従官に詔して車をして一石の鮑魚を載せしめ、以て其の臭ひを乱す。行きて直道より咸陽に至り、喪を発す。太子胡亥位を襲ひ、二世皇帝と為る。九月、始皇を酈山に葬る。始皇初めて位に即くや、酈山を穿治し、天下を并するに及び、天下の徒送り詣る者七十余万人、三泉を穿ち、銅を下して槨を致し、宮観・百官・奇器・珍怪を徙し臧して之を満たす。匠をして機弩矢を作らしめ、穿ちて近づく所有る者は輒ち之を射しむ。水銀を以て百川江河大海と為し、機もて相灌輸し、上は天文を具へ、下は地理を具ふ。人魚の膏を以て燭と為し、滅えざるを度ること之を久しくす。二世曰く、「先帝の後宮の子有るに非ざる者は、出だすは宜しからず」と。皆死に従はしむ、死する者甚だ衆し。葬既に已に下り、或いは言ふ、工匠機を為り、臧は皆之を知る、臧重ければ即ち泄れんと。大事畢はり、已に臧し、中羨を閉ぢ、外羨門を下し、尽く工匠の臧する者を閉ぢ、復た出づる者無し。草木を樹ゑて以て山に象る。年二十一。趙高郎中令と為り、任じて事を用ゐる。二世詔を下し、始皇の寝廟の犠牲及び山川百祀の礼を増す。群臣に令して始皇の廟を尊ぶことを議せしむ。群臣皆頓首して言ひて曰く、「古は天子七廟、諸侯五、大夫三、万世と雖も世軼毀せず。今始皇を極廟と為し、四海の内皆貢職を献じ、犠牲を増し、礼咸備はり、以て加ふる毋し。先王の廟或いは西雍に在り、或いは咸陽に在り。天子の儀は当に独り酌を奉じて始皇の廟を祠るべし。
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史記 李斯列伝是に於て乃ち相与に謀り、詐りて始皇の詔を丞相に受くと為し、子胡亥を立てて太子と為す。更めて書を為りて長子扶蘇に賜ひて曰く、「朕天下を巡り、名山の諸神に禱祠して以て寿命を延べんとす。今扶蘇は将軍蒙恬と師数十万を将ゐて以て辺に屯すること、十有余年なり。進みて前む能はず、士卒多く秏し、尺寸の功無し。乃ち反って数々書を上り直言して我が為す所を誹謗し、罷め帰りて太子と為るを得ざるを以て、日夜怨望す。扶蘇は人の子と為りて不孝なり。其れ剣を賜ひて以て自裁せしめよ。将軍恬は扶蘇と外に居りて、匡正せず。宜しく其の謀を知るべし。人臣と為りて不忠なり。其れ死を賜ひ、兵を以て裨将王離に属せしめよ」と。其の書を封ずるに皇帝の璽を以てし、胡亥の客をして書を奉じて扶蘇に上郡に賜はしむ。使者至り、書を発く。扶蘇泣き、内舎に入り、自殺せんと欲す。蒙恬扶蘇を止めて曰く、「陛下外に居りて、未だ太子を立てず。臣をして三十万の衆を将ゐて辺を守らしめ、公子を監と為す。此れ天下の重任なり。今一使者来たりて、即ち自殺せば、安くんぞ其の詐に非ざるを知らん。請ふ復た請へ。復た請ひて後に死するも、未だ暮れざるなり」と。使者数々之を趣す。扶蘇人と為り仁なり。蒙恬に謂ひて曰く、「父にして子に死を賜ふ。尚ほ安くんぞ復た請はん」と。即ち自殺す。
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史記 蒙恬列伝而して御史曲宮を遣はし伝に乗りて代に之かしめ、蒙毅に令して曰く、「先主太子を立てんと欲して卿之を難ず。今丞相卿を以て不忠と為し、罪其の宗に及ぶ。朕忍びず、乃ち卿に死を賜ふ。亦甚だ幸ひなり。卿其れ之を図れ」と。毅対へて曰く、「臣を以て先主の意を得る能はずと為さば、則ち臣は少くして宦し、順ひ幸せられて世を没へたり。意を知ると謂ふべし。臣を以て太子の能を知らずと為さば、則ち太子独り従ひ、天下を周旋し、諸公子を去ること絶だ遠し。臣疑ふ所無し。夫れ先主の太子を挙用するは、数年の積なり。臣乃ち何の言か之れ敢て諫め、何の慮りか之れ敢て謀らん。敢て辞を飾りて以て死を避くるに非ざるなり。先主の名を羞累せんが為なり。願はくは大夫為に慮り、臣をして情実に死するを得しめよ。且つ夫れ順成全なる者は、道の貴ぶ所なり。刑殺なる者は、道の卒ふる所なり。昔者秦の穆公は三良を殺して死し、百里奚を罪するも其の罪に非ず。故に号を立てて『繆』と曰ふ。昭襄王は武安君白起を殺す。楚の平王は伍奢を殺す。呉王夫差は伍子胥を殺す。此の四君は、皆大いに失ふと為して、天下之を非とし、其の君を以て明ならずと為し、是を以て諸侯に籍せらる。故に曰く『道を用ひて治むる者は無罪を殺さず、而して罰は無辜に加へず』と。唯だ大夫心を留めよ」と。使者、胡亥の意を知り、蒙毅の言を聴かず、遂に之を殺す。二世又使者を遣はして陽周に之かしめ、
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『長短経』懼戒胡亥既に高の言を然りとし、乃ち丞相斯に謂いて曰く「上崩じ、長子に書を賜い、喪と俱に咸陽に会して、立てて嗣と為さしむ。書未だ行かざるに、今上崩じ、未だ知る者有らず。事将に何如せん」と。斯曰く「安んぞ亡国の言を得んや」と。高曰く「君、自ら料るに、才能は蒙恬に孰与れぞ。功の高きこと蒙恬に孰与れぞ。謀の遠くして失わざること蒙恬に孰与れぞ。天下に怨み無きこと蒙恬に孰与れぞ。長子の旧くして之を信ずること蒙恬に孰与れぞ」と。斯曰く「此の五者は皆蒙恬に及ばず。而るに君の之を責むること何ぞ深きや」と。高曰く「高は故の内官の廝役なり。幸いに刀筆の吏を以て秦宮に進入することを得、事を管すること二十余年、未だ嘗て秦の免罷せし丞相・功臣の封有りて二世に及ぶ者を見ず。卒に皆以て誅亡す。皇帝の二十余子は、皆君の知る所なり。長子は剛毅にして武勇、人を信じて事に奮う。位に即かば必ず蒙恬を用いて丞相と為さん。君侯の終に通侯の印を懐きて郷里に帰らざること、明らかなり。高、詔を受けて胡亥に教習して法を学ばしむ。仁慈篤厚にして、財を軽んじ士を重んず。秦の諸子皆及ぶ莫し。以て嗣と為すべし。君、計りて之を定めよ」と。
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史記 李斯列伝高乃ち丞相斯に謂ひて曰く、「上崩じ、長子に書を賜ひ、喪と咸陽に会して立ちて嗣と為らしむ。書未だ行らず。今上崩じ、未だ知る者有らざるなり。長子に賜ふ所の書及び符璽は皆胡亥の所に在り。太子を定むるは君侯と高との口に在るのみ。事将に何如せん」と。斯曰く、「安くんぞ亡国の言を得たる。此れ人臣の当に議すべき所に非ざるなり」と。高曰く、「君侯自ら料るに、能は蒙恬と孰れぞ。功の高きは蒙恬と孰れぞ。謀遠くして失はざるは蒙恬と孰れぞ。怨み天下に無きは蒙恬と孰れぞ。長子の旧くして之を信ずるは蒙恬と孰れぞ」と。斯曰く、「此の五者は皆蒙恬に及ばず。而るに君之を責むること何ぞ深きや」と。高曰く、「高は固より内官の廝役なり。幸ひに刀筆の文を以て秦宮に進み入るを得、事を管すること二十余年、未だ嘗て秦の丞相功臣を免罷して封の二世に及ぶ者有るを見ざるなり。卒に皆誅を以て亡ぶ。皇帝の二十余子は、皆君の知る所なり。長子は剛毅にして武勇、人を信じて士を奮はす。即位せば必ず蒙恬を用ひて丞相と為さん。君侯終に通侯の印を懐きて郷里に帰らざること、
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