玉勝間 / 四の巻 持明院
持明院は、上立賣の北、新町の西に有り。もと持明院ノ家の先祖、中納言基家卿の家なり。然るに後高倉院の妃北白川ノ院、此基家卿の御女なりしによりて、後高倉院此持明院にましまし、其後後堀川のみかど、御位おりさせ給ひて、此院にましましけるより、あひつぎて代代、おりゐのみかどの御所となれりと、或人の說なり。
新字:持明院は、上立売の北、新町の西に有り。もと持明院ノ家の先祖、中納言基家卿の家なり。然るに後高倉院の妃北白川ノ院、此基家卿の御女なりしによりて、後高倉院此持明院にましまし、其後後堀川のみかど、御位おりさせ給ひて、此院にましましけるより、あひつぎて代代、おりゐのみかどの御所となれりと、或人の説なり。
書き下し
持明院は、上立売の北、新町の西に有り。もと持明院の家の先祖、中納言基家卿の家なり。然るに後高倉院の妃北白川の院、この基家卿の御女なりしによりて、後高倉院この持明院にましまし、その後後堀川のみかど、御位おりさせ給いて、この院にましましけるより、あいつぎて代々、おりいのみかどの御所となれりと、或る人の説なり。
現代語訳
持明院は、上立売通の北、新町通の西にある。もとは持明院家の先祖、中納言基家卿(藤原基家)の家である。ところが後高倉院の妃の北白河院が、この基家卿の御娘であったことによって、後高倉院がこの持明院にお住まいになり、その後、後堀河天皇が御位を下りられてこの院にお住まいになったことから、代々引き続いて退位した天皇の御所となった、とある人の説である。
解説
京都の持明院が、上皇の御所となった由来を記した一段である。持明院はもと藤原基家の邸で、その娘の北白河院が後高倉院の妃となった縁で、後高倉院がここに住み、次いで退位した後堀河天皇もここに住んだ。以後、代々の上皇の御所となった、という説を宣長は伝える。この御所に住んだ後深草院の系統は、のちに持明院統と呼ばれ、亀山院の大覚寺統と皇位を争った。その対立が南北朝の分裂へとつながってゆく。一つの邸宅の名が皇統の名となり、歴史の大きな流れを担うことになったのである。宣長は「或る人の説」と出典の確かさに断りを入れつつ書き留めている。地名や建物の名の由来を押さえておくことは、歴史の記録を読み解く基礎になる。
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