玉勝間 / 四の巻 教は猨田彦ノ神のをしへと云ふ事
近き世神道者の說に、道は天照大神の道、敎は猨田彥ノ神の敎へなりと、いみしけに云ふなり。道は天照大神の道と云ふは、論無きを、敎は猨田彥ノ神のをしへと云ふ事こそ、いと心得ね。猨田彥ノ神は、皇御孫ノ命の天降ます御前に立ちて、啓行をこそ仕奉り給へれ、世の人のおこなふべき道を、敎へ給へる事は、古書にかつて見えず。よしも無き附會なり。此外世の神道者の云ふ說ども、此たぐひのみ多し。皆から國の敎說をうらやみて、かれに似たらむともとめたる、しひごとなり。
新字:近き世神道者の説に、道は天照大神の道、教は猨田彦ノ神の教へなりと、いみしけに云ふなり。道は天照大神の道と云ふは、論無きを、教は猨田彦ノ神のをしへと云ふ事こそ、いと心得ね。猨田彦ノ神は、皇御孫ノ命の天降ます御前に立ちて、啓行をこそ仕奉り給へれ、世の人のおこなふべき道を、教へ給へる事は、古書にかつて見えず。よしも無き附会なり。此外世の神道者の云ふ説ども、此たぐひのみ多し。皆から国の教説をうらやみて、かれに似たらむともとめたる、しひごとなり。
書き下し
近き世神道者の説に、道は天照大神の道、教えは猿田彦の神の教えなりと、いみしげに云うなり。道は天照大神の道と云うは、論無きを、教えは猿田彦の神の教えと云う事こそ、いと心得ね。猿田彦の神は、皇御孫の命の天降ります御前に立ちて、啓行をこそ仕え奉り給えれ、世の人のおこなうべき道を、教え給える事は、古書にかつて見えず。よしも無き付会なり。この外世の神道者の云う説ども、このたぐいのみ多し。皆から国の教説をうらやみて、かれに似たらむともとめたる、しいごとなり。
現代語訳
近頃の神道家の説に、「道は天照大神の道、教えは猿田彦神の教えである」と、もっともらしく言っている。道は天照大神の道と言うのは論ずるまでもないが、教えは猿田彦神の教えと言う事こそ、まったく納得できない。猿田彦神は、皇御孫命(邇邇芸命)が天降りなさる御前に立って、道案内をお仕え申し上げなさったのであって、世の人の行うべき道を教えなさった事は、古書にまったく見えない。何の根拠もないこじつけである。このほか世の神道家の言う説どもには、この類ばかりが多い。みな唐国の教えの説をうらやんで、あれに似せようと求めた、無理な言い分である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』九の巻 道道は、高御産巣日、神産巣日御祖の神の産霊によりて、伊邪那岐、伊邪那美二柱の神のはじめ給い、天照大御神の受けて行わせ給う道なれば、必ず万の国々、天地の間に、あまねく行き足らうべき道なり。ただ人の、おのがわたくしの家の物とすべき道にはあらず。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
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『玉勝間』四の巻 両部神道ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
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『直毘霊』此の道はいかなる道ぞそも此の道は、いかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのずからなる道にもあらず。是をよく弁え別けて、かの漢国の老荘などが見と、ひとつにな思いまがえそ。人の作れる道にもあらず。此の道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、世の中にあらゆる事も物も、皆悉に、此の大神のみたまより成れり。神祖伊邪那岐大神・伊邪那美大神の始めたまいて、よのなかにあらゆる事も物も、此の二柱の大神よりはじまれり。天照大御神の受けたまい、たもちたまい、伝え賜う道なり。故に是を以て神の道とは申すぞかし。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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『玉勝間』七の巻 おのが仕、奉る神を尊き神になさまほしくする事中昔よりして、神主・祝部のともがら、己が仕え奉る社の神を、有るが中にも尊き神にせまほしく思いては、古き伝えの有る御名をば、隠して、或いは国常立の尊をまつれり、天照大神を祭れり、神武天皇をまつれりなど云いて、例の神秘のむね有りげに、似つかわしく作りなして偽るたぐい、世に多し。おのれ尊き神につかうる者にならむとて、その仕え奉る神を、わたくしに心にまかせて、偽り奉るは、いともかしこき、みだり事ならずや。
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