神皇正統記 / 巻五 第七十二代 白河院
執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にもおはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おまし〳〵き。
書き下し
執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にもおはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましましき。
現代語訳
摂関が世を動かしておられた時でも、宣旨や太政官符によってこそ天下の事は施行されていたのに、この御時から院宣や院庁下文を重んじられるようになったので、在位の君はまた、ただ位に備わっておられるだけになった。世が末になった姿なのであろうか。また都の南の鳥羽という所に離宮を建て、大規模な土木の造営があった。昔は位を退いた君は朱雀院におられた。これを後院という。また冷然院にもおられたが、白河院はそれらの所にはお住みにならなかった。白河院より後には、鳥羽殿をもって上皇のお住まいの本所と定められた。御子の堀河の帝、御孫の鳥羽の帝、曾孫の崇徳の御在位まで五十余年にわたって世を治められたので、院中の礼などということもこれから定まった。すべて御心のままに長く保たれた御代である。七十七歳であられた。
解説
関連する章句
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。
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『神皇正統記』巻五 第七十二代 白河院第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱屣の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやうやうしらせ給こともありしにや。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十四代 鳥羽院第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにましましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくましましければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おましましき。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四の子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。
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『神皇正統記』巻五 第七十七代 後白河院内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。
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