玉勝間 / 四の巻 両部神道
唯だおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云ふに、儒の道佛の道は、あだし國よりわたりまうで來つる道にして、神の道ぞ、皇國の本よりの道なれば、後の世と云へども、世の人なほ、他國の道によらんよりは、同じくは吾ヲ國の道をこそはたふとむべけれ、と思ふ心も、さすがに多く有る物なれば、さる世ノ人をおもむけむ爲に、わが國の道と云ふ名をかりたる物にして、此ともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有ける。そのかみ猶國國の民どもは、もはら神をたふとみあふげる故に、まづ其神を引こめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも佛の奴の如く說なして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の兩部神道の、神道と云ふ名も、此心ばへを以てなり。
新字:唯だおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云ふに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりまうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云へども、世の人なほ、他国の道によらんよりは、同じくは吾ヲ国の道をこそはたふとむべけれ、と思ふ心も、さすがに多く有る物なれば、さる世ノ人をおもむけむ為に、わが国の道と云ふ名をかりたる物にして、此ともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有ける。そのかみ猶国国の民どもは、もはら神をたふとみあふげる故に、まづ其神を引こめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説なして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云ふ名も、此心ばへを以てなり。
書き下し
ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
現代語訳
ただ自分の私的な、新しく切り開いた道であるのに、それを神道と名づけたのはどういうわけかと言えば、儒の道・仏の道は他国から渡って来た道であって、神の道こそが皇国の元からの道であるので、後の世といっても、世の人はやはり、他国の道に拠るよりは、同じことなら我が国の道をこそ尊ぶべきだと思う心も、さすがに多くあるものなので、そういう世の人を引き寄せるために、我が国の道という名を借りたものであって、この連中が祖とする昔の法師なども、そのようであった。当時はなお国々の民たちが、もっぱら神を尊び仰いでいたので、まずその神を取り込んで、自分の道の中のものにしてしまい、畏れ多くも仏の召使いのように説きなして、人の心を移させたものなのである。近い世の両部神道の「神道」という名も、この魂胆によるのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 両部神道大かた天の下の神社、中昔より、ほうしの仕うるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗に唯一と云い、ほうしの仕うる社を、両部と云う。また別に両部神道と名のる一ながれも有り。その説に云わく、聖徳太子、舎人親王もみな両部神道なり、さて空海諸道に通達して、神道の奥義をきわめ、この両部神道を中興せり、嵯峨の天皇これを叡感有りて、両部神道と云う号を下し給うと云えり。まづ是れ皆そら事なり。さてその説ざまは、神儒仏の三教の、勝を取りて劣を捨つと云い、また今日目前の万物の理を以て、天地の始終をも知ると云えり。今論めて云わく、これ皆いみしきひがことなり。まづ三教の勝をとるとは云えれども、その説ける事どもを見るに、ただ儒と仏とをのみ取りて、神の道の意を取れる事はさらに無し。すべて仏の道をむねとして、儒をまじえ、また天文の事を多く云えり。かくて神の道は、ただ書紀の神代の巻の、天地のはじまりの所の、潤色の漢文と、国常立など神の御名を、おりおり出だせるばかりにこそあれ、その道の意とては、露ばかりも見えず。いかでか是れを神道と名づくる事を得む。また天文の事も、さらに道にはあずからぬ事なり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上此邦ノ神道ハ。最初ニ儒仏ノ道ヲ牽合セテ両部習合ト云。ソノ次ニ仏者ノ徒カ神道ノ起リタルヲ妬ミ。本迹縁起ノ神道ヲ説テ。表ハ神祇ヲ顕ハシテ。底裏ハ此ヲ仏道ニ帰スル。其後一般ノ祢宜神主。仏法ノ世ニ盛ナルヲ妬ミ。此二途ヲ破シテ。唯一宗源ノ神道ヲ説ク。其後ニハ此ヲ王道ニ帰シテ。王道神道ヲ説ク。近比ハ表ニ神道ヲ説テ。底裏ハ儒道ニ帰ス。三国共ニ人情ハ一様トナルト。或者カ云ニハ。是ハ上ノ今日ノ有ルヘキ道ト立シ者ノ見識ナルト。
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『直毘霊』神の道と名づけらる然るをやや降りて、書籍という物渡り参り来て、それを学びよむ事始まりて後、其の国のてぶりをならいて、やや万のうえにまじえ用いらるる御代になりてぞ、大御国の古の大御てぶりをば、取り別けて神の道とは名づけられたりける。そはかの外国の道々にまがうがゆえに、神といい、又かの名を借りて、ここにも道とはいうなりけり。
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『玉勝間』二の巻 両部唯一と云ふ事天下の神社のうち、神人のみつかうる社を、俗に唯一と云い、法師のつかうる社を、両部と云う。また両部神道とて教うる一ながれもあり、両部とは、仏の道の密教の、胎蔵界、金剛界の両部と云う事を、神の道に合わせたるを、両部習合の神道と云えり。かの両部を以て、神道に合わせたるよしなり。部の字にて心得べし。神と仏とをさして云う両にはあらず、さてまた唯一と云うは、両部神道と云うもののあるにつきて、その両部をまじえざるよしなり。されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は両部神道有りての後なり。然るにこの名を、両部に対えたるにはあらず、天人唯一の義なりと云いなせるは、いみしきひがことなり。天と人とひとつなりとは、いかなることわりぞや。そはただ天をうえも無くいみしき物にすなる、漢意より云いなしたる事にて、いたく古の意にそむけり。そもそも天は、天つ神たちのまします御国にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ。世の物しり人みな、古のこころを得さとらず、ひたぶるに漢意にまどえるから、何につけても、ことわり深げなることを説かむとて、しいてかかる事をも云うにぞ有りける。
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたるいさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一なる故に、これを仮て説也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説
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『直毘霊』漢籍の神道と皇国の神道されば彼の漢籍なる神道は、測り難くあやしき道という心、皇国の神道は、皇祖神の、始め賜い保ち賜う道ということにて、其の意いたく異なるをや。さて其の道の意は、此の記をはじめ、諸々の古書どもをよく味わい見れば、今もいとよく知らるるを、世々の物知り人どもの心も、皆禍津日神にまじこりて、唯唐書にのみ惑いて、思いと思い、言いと言うことは、皆仏と漢との意にして、まことの道の心をば、え悟らずなもある。
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