玉勝間 / 三の巻 神の御ふみをとける世世のさま
さていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又やうやうに、かの佛ごころをまじふるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて說く事となれり。然れどもそれは、まことに古、の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭へるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて說趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず。このともがら、かの佛に流れたる事のひがことをば知りながら、みづから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。斯くして又近き世には、然か儒による事の惡ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたはで、天理陰陽など云ふ說をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立いでては、高天ノ原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐひ、すべて斯やうに、おのが私の心をもて、さまざまに說曲る事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みづからさも覺えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならひぞかし。
新字:さていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又やうやうに、かの仏ごころをまじふるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古、の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭へるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなはず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みづから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。斯くして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたはで、天理陰陽など云ふ説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立いでては、高天ノ原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐひ、すべて斯やうに、おのが私の心をもて、さまざまに説曲る事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みづからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならひぞかし。
書き下し
さていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
現代語訳
さて、いよいよ心が賢しらになっていくにつれて、近い世になると、またしだいに、あの仏教の考えを混ぜることが誤りであることに気づいて、それをすっかり取り除いて説くようになった。けれどもそれは、本当に古の心を悟ってそうしたのではなく、ただ儒学の考えが進んだから仏教を嫌ったものである。そのため、近い世に神の道として説く趣旨は、ひたすら儒学であって、まったく神の道に合わない。この者たちは、仏教に流れたことの誤りは知りながら、自分たちがまた儒学に流れていることを悟れないのは、どうしたことか。こうしてまた近い世には、そのように儒学によることの悪さも少しは知って、努めてこれを取り除こうとする者も、あちこちにちらほら見えるようだが、それもまだきれいに漢意を離れることができず、天理や陰陽などという説をやはり真実と心得て、ともすればいつもの賢しらが出てきて、高天原を地上の帝都のこととし、天照大御神を天の太陽ではないとし、海神の宮を一つの島だとする類い、すべてこのように自分の私的な心でさまざまに説き曲げることを免れないのは、やはりみな漢意であるのに、自分ではそうとも気づかないのは、そうした癖が世の人の心の底に染み付いている習いなのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたる輩も又、神道とても、仏の道の外なることなし、一致也とぞいふべき、これら共に、おのおの其道に惑へるから、然思ふ也、まことの神道は、儒仏の教ヘなどとは、いたく趣の異なる物にして、さらに一致なることなし、すべて近世の神学家は、件のごとくなれば、かの漢学者流の中の、宋学といふに似て、いさゝかもわきめをふらず、たゞ一すぢに道の事をのみ心がくめれども、ひたすら漢流の理窟にのみからめられて、古の意をば、尋ねんものとも思はず、其心を用るところ、みな儒意なれば、深く入ルほど、いよいよ道の意には遠き也、さて又かの仏の道によりて説るともがらは、その行法も、大かた仏家の行法にならひて、造れる物にして、さらに皇国の古ヘの行ひにあらず、又かの近世の儒意の神道家の、これこそ神道の行ひよとて、物する事共、葬喪祭祀等の式、其外も、世俗とかはりて、別に一種の式を立て行ふも、これ又儒意をまじへて、作れること多くして、全く古ヘの式にはあらず、すべて何事も、古ヘの御世に、漢風をしたひ用ひられて、
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『玉勝間』一の巻 又漢国にも、神あることを、むげに知らざるにもあらず、尊みもし祀りもすめるは、まことの伝えの、かたはしは有りしならむ。然れどもこの天地をはじめ給い、国土万の物を造りなし給い、人の道をも万の事をも始め給い、世の中のよろづの事をしり行い給う神たちのまします事をば、すべてえ知らずして、これらの重く大きなる事には、ただ天をのみ云いて、ただかたわらなる小さき事にのみ、神をば云いて、この世を照らし給う日の大御神をすら、かろがろしく、ことなる事も無き物の如くして、この神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだに知らざるは、いとあさましきわざなりかし。
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたるいさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一なる故に、これを仮て説也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説
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