玉勝間 / 一の巻 漢意
然るに神の御典を說くともがら、もはらこれらの理リをもて說なるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて說くと思ふ人も、猶此天理陰陽などの說のひが事なるをば、得さとらず、其垣内を出ずはなるる事あたはざるは、なほ漢意の〓く去らで、かれにまどへる夢の、いまだ確かにさめざるなり。又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小き理リにかかはり泥みて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思はざるものなり。此大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其理は測り知らるべききはにあらず。おのが智もてはかり知る事あたはざるをもて、其理無しと思ふは、例の小きから意なるをや。
新字:然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理リをもて説なるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思ふ人も、猶此天理陰陽などの説のひが事なるをば、得さとらず、其垣内を出ずはなるる事あたはざるは、なほ漢意の〓く去らで、かれにまどへる夢の、いまだ確かにさめざるなり。又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小き理リにかかはり泥みて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思はざるものなり。此大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐て、御国しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其理は測り知らるべききはにあらず。おのが智もてはかり知る事あたはざるをもて、其理無しと思ふは、例の小きから意なるをや。
書き下し
然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
現代語訳
それなのに、神の御典(日本書紀の神代巻など)を説く人々が、もっぱらこれらの理によって説くのは、何という愚かなことか。近頃になって、儒学の考えを除いて説いていると思っている人も、なおこの天理・陰陽などの説が誤りであることを悟ることができず、その囲いの内から出て離れることができないのは、なお漢意がきれいに去らず、それに惑っている夢がまだ確かに覚めていないのである。また天照大御神を天つ日(太陽)ではないとするのも、漢意の小さな理にこだわってとらわれ、まことの道に霊妙で深い理があることを思わないものである。この大御神が天つ日であられて、その御孫の命が天から降られて御国をお治めになることは、人の小さな知恵でその理を測り知ることのできる程度のことではない。自分の知恵で測り知ることができないからといって、その理がないと思うのは、いつもの小さな漢意なのである。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
-
『玉勝間』二の巻 神典のときざま中昔よりこなた、神典を説く人ども、古の意言をばたずねむ物とも思いたらず、ただひたぶるに、外国の儒仏の意にすがりて、その理をのみ思いさだして、万葉を見ず、むげに古の意言を知らざるが故に、かのから意のことわりの外に、別に古の旨ありて、明らかなることをえ知らず、これによりて古のむねはことごとくうずもれて顕れず、神の御ふみも、皆から意になりて、道明らかならざるなり、かくておのが神の御書をとく趣は、世のつねの説どもとはいたく異にして、世世の人のいまだ云わざる事どもなる故に、世の学者、とりどりにとがむる事おおし。されどそはただ、さきの人人の、ひたすら漢意にすがりて説きたる説をのみ聞きなれて、みずからも同じく、いまだからごころのくせの清く去らざるから、そのわろき事をえさとらざるものなり。おのが云うおもむきは、ことごとく古事記書紀にしるされたる、古の伝説のままなり。世の人人の云うは、皆そのまどい居る漢意に説き曲げたるわたくし事にて、いたく古の伝説と異なり。このけじめは、古事記書紀をよく見ば、おのずから分かるべき物をや。もしおのが説をとがめむとならば、まず古事記書紀をとがむべし。この御典どもを信ぜんかぎりは、おのが説をとがむる事えじ。
-
『玉勝間』一の巻 又漢国にも、神あることを、むげに知らざるにもあらず、尊みもし祀りもすめるは、まことの伝えの、かたはしは有りしならむ。然れどもこの天地をはじめ給い、国土万の物を造りなし給い、人の道をも万の事をも始め給い、世の中のよろづの事をしり行い給う神たちのまします事をば、すべてえ知らずして、これらの重く大きなる事には、ただ天をのみ云いて、ただかたわらなる小さき事にのみ、神をば云いて、この世を照らし給う日の大御神をすら、かろがろしく、ことなる事も無き物の如くして、この神をもとも畏れ尊み奉るべきことをだに知らざるは、いとあさましきわざなりかし。
-
『玉勝間』一の巻 漢意漢国には、おおよそ人の禍福、国の治乱など、すべて世の中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道・天命・天理など云いて、これをうえなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢国には、まことの道伝わらずして、万の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りもうけて云えるものなり。そもそも天は、ただ天つ神たちのまします御国のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云うこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとえば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、その君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れども、外国には、万は神の御しわざなる事をえ知らざれば、この天道・天理の説を信じ居らむも、さる事なるを、皇国には、まことの道の正しき伝えの有りながら、それをば尋ね思わずして、ただ外国のみだりなる説をのみ信じて、天と云う事を、いみじき事に心得居て、万の事に、その理をのみ云うは、いかにぞや。また太極・無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など、ことごとしくこちたく云うなる事共も、ただ漢国人のわたくしの造説にて、まことにはその理とては有る事無し。
-
『玉勝間』五の巻 漢籍と神ノ御典とのけぢめからぶみの説は、いとかしこくは聞ゆれども、人のさとりは限りし有れば、及ばぬところ有りて、かの人のたくみをもて、人を作らんとすれども、ついに作り得ることあたわざるがごとくなるを、神代の伝えごとは、かの閨の内の態の、見る目ははかなく愚かなれども、よく人を造りなすに同じきをや。このふたつを思いわたして、神世の事どもの、うわべは、なにのことわり有りげも無く、はかなくおろかに聞こゆれども、まことには、人の智の及びがたくはかりがたき、深き理のそなわりたんめる事を、さとりねかしとぞ。
-
『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る