玉勝間 / 四の巻 やしなひ子
世には人に深き恨みなどを殘して、なくなりたる者のたましひは、其人に來よりつきて、たたりをもなすに有らずや。さるは其人には、何のすぢも有らざれども、唯だ一ふし思ひしめたるゆかりにだに、然かよりくる物を、ましてひたぶるに子とたのみて、代を繼がせたる者の祭を、受けには來ざるべきものかは。
新字:世には人に深き恨みなどを残して、なくなりたる者のたましひは、其人に来よりつきて、たたりをもなすに有らずや。さるは其人には、何のすぢも有らざれども、唯だ一ふし思ひしめたるゆかりにだに、然かよりくる物を、ましてひたぶるに子とたのみて、代を継がせたる者の祭を、受けには来ざるべきものかは。
書き下し
世には人に深き恨みなどを残して、なくなりたる者のたましいは、その人に来よりつきて、たたりをもなすに有らずや。さるはその人には、何のすじも有らざれども、ただ一ふし思いしめたるゆかりにだに、然かよりくる物を、ましてひたぶるに子とたのみて、代を継がせたる者の祭を、受けには来ざるべきものかは。
現代語訳
世には、人に深い恨みなどを残して亡くなった者の魂は、その人のもとに来て取り憑き、祟りをもなすことがあるではないか。それは、その人とは何の血筋もないけれども、ただ一つのことを深く思い込んだ縁にさえ、そのように寄って来るのであるから、ましてひたすら子と頼んで、家の代を継がせた者の祭りを、受けに来ないはずがあろうか。
解説
前段で退けた「養子の祭りは先祖の霊が受けない」という儒者の説に、具体的な反証を挙げた一段である。宣長は、世には深い恨みを残して死んだ者の魂が、その相手に取り憑いて祟る例があるではないか、と言う。恨まれた相手とは何の血のつながりもなく、ただ一つの強い思いの縁だけで霊は寄って来る。それなら、ひたすら子として頼み、家を継がせた養子の祭りを、先祖の霊が受けに来ないはずがない、と論じるのである。霊を結びつけるのは血筋ではなく心のつながりだ、という考え方がここにある。宣長は神や霊の存在を理屈で否定せず、人々が昔から感じてきたとおりに受け止めた。家族を結ぶものは血か心か、という今にも通じる問いを含む段である。
関連する章句
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