玉勝間 / 四の巻 やしなひ子
あだし氏の人の子を子にして、家繼がしむる事の、今の世の如くなることは、皇國にも、もろこしの國などにも、古へはをさをさ無き事なりき。されば儒者などは、これを有るまじき事にして、大かた子と云ふ者の無きは、そのよつぎを天の絕ち給ふにて、せむかた無ければ、さて止むべきに、よしなき人の子をとりて、繼がしむるは、すぢことなれば、徒らわざにて、中中に天にもそむくひが事ぞ、なども云ふめるは、いと片おちなり。やむこと得ずは、たとひその筋には有らぬにても、つがしめて、氏門を絕たず、祖のはか所をも荒らさず、祭も絕えざらんぞ、ひたぶるに絕えはてむよりは、はるかに勝りてはあるべき。古、は世ノ中にさるならひの無かりつればこそあれ、今の世の如くなりせば、周公孔子も、それ惡しとは云ひたらじをや。然るを又或る儒者の云ひけらくは、異姓の養子は、祖を祭れども、その祭り受くる事無し。うみの子のまつりを、祖の受くる事は、そのすぢなればこそあれ、すぢならぬ者の祭らんには、そのみたまの、受けに來ますべきよし無しとも云ふは、いと心得ぬ事なり。
新字:あだし氏の人の子を子にして、家継がしむる事の、今の世の如くなることは、皇国にも、もろこしの国などにも、古へはをさをさ無き事なりき。されば儒者などは、これを有るまじき事にして、大かた子と云ふ者の無きは、そのよつぎを天の絶ち給ふにて、せむかた無ければ、さて止むべきに、よしなき人の子をとりて、継がしむるは、すぢことなれば、徒らわざにて、中中に天にもそむくひが事ぞ、なども云ふめるは、いと片おちなり。やむこと得ずは、たとひその筋には有らぬにても、つがしめて、氏門を絶たず、祖のはか所をも荒らさず、祭も絶えざらんぞ、ひたぶるに絶えはてむよりは、はるかに勝りてはあるべき。古、は世ノ中にさるならひの無かりつればこそあれ、今の世の如くなりせば、周公孔子も、それ悪しとは云ひたらじをや。然るを又或る儒者の云ひけらくは、異姓の養子は、祖を祭れども、その祭り受くる事無し。うみの子のまつりを、祖の受くる事は、そのすぢなればこそあれ、すぢならぬ者の祭らんには、そのみたまの、受けに来ますべきよし無しとも云ふは、いと心得ぬ事なり。
書き下し
あだし氏の人の子を子にして、家継がしむる事の、今の世の如くなることは、皇国にも、もろこしの国などにも、古えはおさおさ無き事なりき。されば儒者などは、これを有るまじき事にして、大かた子と云う者の無きは、そのよつぎを天の絶ち給うにて、せむかた無ければ、さて止むべきに、よしなき人の子をとりて、継がしむるは、すじことなれば、徒らわざにて、なかなかに天にもそむくひが事ぞ、なども云うめるは、いと片おちなり。やむこと得ずは、たといその筋には有らぬにても、つがしめて、氏門を絶たず、祖のはか所をも荒らさず、祭も絶えざらんぞ、ひたぶるに絶えはてむよりは、はるかに勝りてはあるべき。古えは世の中にさるならいの無かりつればこそあれ、今の世の如くなりせば、周公・孔子も、それ悪しとは云いたらじをや。然るをまたある儒者の云いけらくは、異姓の養子は、祖を祭れども、その祭り受くる事無し。うみの子のまつりを、祖の受くる事は、そのすじなればこそあれ、すじならぬ者の祭らんには、そのみたまの、受けに来ますべきよし無しとも云うは、いと心得ぬ事なり。
現代語訳
他の氏の人の子を自分の子にして家を継がせる事が、今の世のように行われることは、皇国にも中国などにも、古にはほとんどない事であった。だから儒者などは、これをあってはならない事として、「おおよそ子というものがないのは、その世継ぎを天が絶たれたのであって、仕方がないのだから、それで終わりにすべきなのに、縁もない人の子を取って継がせるのは、血筋が異なるので無駄なことであり、かえって天にも背く誤りだ」などと言うようだが、まことに片手落ちである。やむを得ないならば、たとえその血筋でなくても継がせて、氏の家門を絶やさず、先祖の墓所も荒らさず、祭りも絶えないようにすることこそ、ひたすら絶え果ててしまうよりは、はるかに勝っているはずである。古は世の中にそういう習わしがなかったからこそ(そうであった)のであって、今の世のようであったならば、周公も孔子も、それを悪いとは言わなかったであろうに。ところがまたある儒者が言うには、「異姓の養子は先祖を祭っても、先祖はその祭りを受けることがない。実の子の祭りを先祖が受けるのは、その血筋だからこそであって、血筋でない者が祭っても、その御霊が受けに来られるはずがない」とも言うのは、まったく納得できないことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 やしなひ子世には人に深き恨みなどを残して、なくなりたる者のたましいは、その人に来よりつきて、たたりをもなすに有らずや。さるはその人には、何のすじも有らざれども、ただ一ふし思いしめたるゆかりにだに、然かよりくる物を、ましてひたぶるに子とたのみて、代を継がせたる者の祭を、受けには来ざるべきものかは。
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『慎思録』巻之三世俗他姓の子弟を以て、妄りに養ひて義子と為す。後来其の子其の生む所に非ざるを以て、往往孝順ならざる者多し。其の義父も亦天性の親無きを以て、其の小過を恕さず、之を督責すること刻薄にして、其の怒りに勝へず。終に父子相乖離して、両家怨みを結ぶに至る。苟も得ずして親族の子弟を養ひて嗣と為さんと欲せば、則ち其の年稍々長ずるを待ちて、能く其の性行を察し、然る後に之を養ひて子と為さば、後患無きに庶し。然らずんば則ち其の悔に勝へざる者多し。慎まざるべけんや。如し親族の子弟の性行佳き者無くんば、後嗣を絶つと雖も、亦乖離する者に勝る。
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『玉勝間』四の巻 人のうせたる後のわざ親を思う心の浅からむ子は、三年をまたで、はやくかなしさはさめぬべきに、なお服をきて、悲しきさまをもてつけ、また心ざし深からんは、三とせ過ぎたらむからに、かなしさは歇むべきならぬに、ぬぎ捨てて、名残り無くしなさむは、共にうわべのいつわりに有らずや。さるを皇国にこの服と云う事の無かりしは、きわやかなるかぎりの無き悲しさのままなるにて、長くも短かくも、これぞまことにかなしむには有りける。服は着ざれども、悲しきはかなしく、着ても、かなしからぬは悲しからねば、いたづら事なり。さればかの国にても、漢の文帝と云いし王は、こよなく服をちぢめたりしを、儒者は、いみしく善からぬ事に、もどき云えども、ことわり有る事ぞかし。皇国にならいまねばれたるにも、ちぢめて、親のをも、一とせと定められたり。さるはいと久しく、身のつとめを欠かむも、よう無きいたづら事なれば、かなしながらに、出でて仕えんに、なでう事かあらむ。さてかく云うは、服ちょう事の有り無しの、本のあげつらいにこそあれ、すでにその御おきての有るうえは、かたく守りて、冒すまじき物ぞかし。
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『玉勝間』三の巻 から人のおやのおもひに身をやつす事もろこしの国の、世世の物知り人どもの、親の喪に、身のいみしくやつれたるを、孝心ふかき事にして、しるしたるがあまたある中には、まことに心のかなしさは、いとさばかりも有らざりけむを、食物をいたくへらしなどして、痩せさらぼいて、ことさらに顔かたちをやつして、いみしげにうわべを見せたるが多かりげに見ゆるは、例のいといとうるさきわざなるを、いみしき事に褒めたるも又おこなり。失せにし親を、まことに思う心深くは、おのが身をも、さばかりやつすべき物かは、身のやつれに、病なども起りて、もしはからず、なくなりなどもしたらむには、孝ある子と云うべしやは、たとい然までには至らずとも、然かいみしくやつれたらむをば、苔の下にも、親はさこそ心ぐるしく思わめ、いかでかうれしとは見む。さる親の心をば思わで、唯だ世の人目をのみつくろいて、名をむさぼるは、何のよき事ならむ。すべて孝行も何わざも、世にけやけきふるまいをして、いみしき事に思わするは、かの国人のならいにぞ有りける。
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事そもそも姓は先祖より伝わる物にこそあれ、上より賜わらざらむ限りは、心に任せて、しかわたくしにすべき物にはあらず。まことにその姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおおじ父の世より、なのり来てあらんは、猶さても有るべきを、おのがあらたに物せむ事は、いといと有るまじきわざになむ。姓知られざらんには、ただ苗字をなのりてあらむに、なでう事かはあらん。すべて古を好まむからに、よろずをあながちに古めかさむとかまうるは、なかなかに古の心には有らざるものをや。
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『玉勝間』三の巻 富貴を願はざるを善き事にする論ひ世世の儒者、身のまずしく賤しきをうれえず、とみ栄えをねがわず、喜ばざるを、善き事にすれども、そは人のまことの情にあらず、多くは名をむさぼる、例のいつわりなり。まれまれにさる心ならむもの有りとも、そは世のひが者にこそあれ、なにの善き事ならん。ことわりならぬ振舞いをして、あながちに願わむこそは、悪しからめ。ほどほどにつとむべきわざを、いそしくつとめて、なりのぼり、富さかえむこそ、父母にも先祖にも、孝行ならめ。身衰え家貧しからむは、うえ無き不孝にこそ有りけれ。唯だおのがいさぎよき名をむさぼるあまりに、まことの孝を忘るるも、又もろこし人の常なりかし。
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