正法眼蔵随聞記 / 巻一
示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の爲にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り來る時に、事に觸れ物に隨て、心品を調ふること難きなり、學者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
新字:示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
書き下し
示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
現代語訳
示して言われた。人は思い切って命をも捨て、身の肉や手足をも切ることは、かえってしやすいものである。そうであるから世間の事を思うに、名利への執着のためにも、多くはこのように思い切るのである。ただ、事が身に降りかかってくるときに、事に触れ物に随って心のありようを調えることが難しいのである。学ぶ者は身命を捨てると思って、しばらく心を押し静め、言うべきことも、修めるべきことも、道理に順ずるか順じないかと考えて、道理に順ずるなら言い、あるいは行いもすべきである。
解説
この章句が説くこと
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