玉勝間 / 四の巻 古言清濁考の事
此考によりて見れば、おのれさきにあらはしたりつる、神代正語などにも、猶まれまれには、考へ及ばざりし事もあるなり。古へ學びせむともがらは、此清濁考、必ず見べき書ぞかし。
新字:此考によりて見れば、おのれさきにあらはしたりつる、神代正語などにも、猶まれまれには、考へ及ばざりし事もあるなり。古へ学びせむともがらは、此清濁考、必ず見べき書ぞかし。
書き下し
この考によりて見れば、おのれさきにあらわしたりつる、神代正語などにも、なおまれまれには、考え及ばざりし事もあるなり。古え学びせむともがらは、この清濁考、必ず見るべき書ぞかし。
現代語訳
この考によって見ると、私が先に著した「神代正語」などにも、なおまれには考えが及ばなかった事もあるのである。古の学びをしようとする者たちは、この清濁考を必ず見るべき書である。
解説
弟子の石塚龍麿の「古言清濁考」を、師である宣長が強く推した結びの一段である。宣長は、この書によって見ると、自分が先に著した「神代正語」にも、まれに考えが及んでいなかった所がある、と率直に認める。神代正語は、古事記の神代の部分を古語の読みのとおりに仮名書きで示した宣長の著作で、清濁の読みはその根幹に関わる。その自著の不備を弟子の研究によって知らされたと公言し、古学を学ぶ者はこの書を必ず見よと勧めているのである。これは、弟子に「わが説にななづみそ」と言い置き、後の良い説を広めよと願った宣長の言葉を、自ら実行したものと言える。学問は一人の権威ではなく、次の世代の手で進んでゆくものだという信念が、ここに具体的な形で表れている。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事一つ二つにては、なお混いつるかの疑いもあらむを、いとあまた見えたる、皆同じきをもて、古えは清みつる事を知るべし。その外の言にも、このたぐいいと多し。古書を考えこころみて、皆なずらえ知るべし。然るに古書を読み、古言を唱うるに、古書のかなには従わずして、今のならいになづみて、濁るべきを清み、濁るまじきを濁りなど、わたくしに定めて読むは、いとみだりなるわざなり。古書を読まむには、古書のかなの清濁にこそ従うべきわざなれ。そもそもおのれ、この清濁の、古と今とかわれる事に心つきて、いかで今のならいにかかわらず、古書のかなに従わばやと、早くより思う事にて、すでに古事記伝の初めの巻にも云いつれども、いとま無くて、もろもろのことばの清濁を、あまねく考えわたす事あたわずして、いと口惜しく思いわたれば、友だちにもこの事つねに語りけるに、おのが教えの子に、遠江の国ふちの郡細田村の人、石塚の龍麻呂なん、この事に心おこして、古書どもを、あまねく委しく考えわたして、この近きほど、古言清濁考と云うふみをあらわしたりける。
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『玉勝間』四の巻 古言清濁考の事古えことばの清濁を考うるに、今の世に云うとは、異なるぞ多かる。そは何によりて知るぞと云うに、古事記・書紀・万葉は、かな遺いいと正しくして、清濁をも分けて書きたれば、これらの書によりて知るべし。この三ともの書の中にも、古事記は殊に正しく、次に万葉、次に書紀なり。書紀は、清濁混いたるも多けれど、なべてはよく分かれたり。万葉は混いすくなし。古事記は、まがいたるはおさおさ見えず。たがえるが稀れに有るは、すべてのいと正しきをもて思えば、後に写し誤れるにこそあらめ。さてそのすみにごり、今の世に云うとは、ことなるも多きを、人皆、通わし書きたりと思い、あるは混いたるなりと思い、あるは濁る音には、清音の字をも書ける例なり、など思いおるは、くわしからざる事なり。さらにさる事にはあらず。古と今と、云う言の清濁のかわれるなり。然か云う故は、たとえば山の枕詞のあしひきの如き、今はなべてヒもじを濁りて読みならえれども、この仮字、古事記にも書紀にも出で、万葉にはことに多く見えたる、みな清音のかなをのみ用いて、濁音を用いたる事無し。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事ただしまたみづからこそ、初めのをば悪ろしと思いて、改めつれ、またのちに人の見るには、なお初めのかたよろしくて、後のはなかなかに悪ろきも無きにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人の心になむ。
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『玉勝間』二の巻 わがをしへ子にいましめおくやう吾に従いて物まなばむともがらも、わが後に、また善き考えのいできたらむには、必ずわが説にななづみそ。わが悪しき故を云いて、善き考えをひろめよ。すべておのが人を教うるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用うるには有りける。道を思わで、いたずらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。
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うひ山ぶみ・第二十三段又初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうの物を、入学のはじめより、かの二典と相まじへてよむべし、然せば、二典の事跡に、道の具備はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事同じ人の説の、こことかしこと行きちがいて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどわしくて、大かたその人の説、すべて浮きたる心地のせらるる、そは一わたりはさる事なれども、なおさしも有らず。初めより終りまで、説のかわれる事無きは、なかなかにおかしからぬかたも有るぞかし。初めに定めおきつる事の、ほどへて後に、またことなるよき考えの出で来るは、常にある事なれば、初めとかわれる事あるこそよけれ。年をへて、学問進みゆけば、説は必ずかわらでかなわず。またおのがはじめの誤りを、後に知りながらは、つつみかくさで、きよく改めたるも、いと善き事なり。殊にわが古学の道は、近きほどより開けそめつる事なれば、すみやかに尽くは考えつくすべきに有らず。人を経、年を経てこそ、つぎつぎに明らかには成りゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なる事は、もとより有らではえ有らぬわざなり。そは一人の生のかぎりの程にも、つぎつぎ明らかに成りゆくなり。さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、その人の定まれる説とはすべかりける。
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