玉勝間 / 四の巻 初学の詩つくるべきやうを教へたる説
近き頃或る儒者の書る物を見れば、初學の輩の、から歌を作るべきさまを敎へたる中に云へるやう、所詮作りならひに、二三百もつくる間の詩は、社外の人に示すべきにも有らず、後に詩集に收錄すべきにも有らざれば、古人の詩を、遠慮無く剽竊して、作り覺え、猶具足しがたくは、唐詩礎、明詩礎、詩語碎錦などやうの物にて、補綴して、こしらゆるが善きなりと云へるは、まことに善き敎へざまなり。歌詠むも、もはらさる事にて、初めよりおのが思ふさまを、あらたに詠み出むとすれば、歌のやうにも有らぬ、ひがことのみ出來て、後までも、さる癖ののぞこりがたき物なれば、うひ學びのほどは、詞の續きも、心のおもむきも、唯だ古りたる跡によりてぞ、詠みならふべきわざなりける。
新字:近き頃或る儒者の書る物を見れば、初学の輩の、から歌を作るべきさまを教へたる中に云へるやう、所詮作りならひに、二三百もつくる間の詩は、社外の人に示すべきにも有らず、後に詩集に収録すべきにも有らざれば、古人の詩を、遠慮無く剽窃して、作り覚え、猶具足しがたくは、唐詩礎、明詩礎、詩語砕錦などやうの物にて、補綴して、こしらゆるが善きなりと云へるは、まことに善き教へざまなり。歌詠むも、もはらさる事にて、初めよりおのが思ふさまを、あらたに詠み出むとすれば、歌のやうにも有らぬ、ひがことのみ出来て、後までも、さる癖ののぞこりがたき物なれば、うひ学びのほどは、詞の続きも、心のおもむきも、唯だ古りたる跡によりてぞ、詠みならふべきわざなりける。
書き下し
近き頃ある儒者の書ける物を見れば、初学の輩の、から歌を作るべきさまを教えたる中に云えるよう、所詮作りならいに、二三百もつくる間の詩は、社外の人に示すべきにも有らず、後に詩集に収録すべきにも有らざれば、古人の詩を、遠慮無く剽窃して、作り覚え、なお具足しがたくは、唐詩礎、明詩礎、詩語砕錦などようの物にて、補綴して、こしらゆるが善きなりと云えるは、まことに善き教えざまなり。歌詠むも、もはらさる事にて、初めよりおのが思うさまを、あらたに詠み出でむとすれば、歌のようにも有らぬ、ひがことのみ出で来て、後までも、さる癖ののぞこりがたき物なれば、うい学びのほどは、詞の続きも、心のおもむきも、ただ古りたる跡によりてぞ、詠みならうべきわざなりける。
現代語訳
近頃ある儒者の書いた物を見ると、初学の者たちが漢詩を作るべき方法を教えた中にこう言っている。「つまるところ、作る練習として二、三百首も作る間の詩は、仲間の外の人に見せるべきものでもなく、後に詩集に収録すべきものでもないのだから、古人の詩を遠慮なく剽窃して作り覚え、それでも言葉が足りなければ、唐詩礎・明詩礎・詩語砕錦などといった書物で継ぎはぎして拵えるのがよい」と言っているのは、まことに良い教え方である。歌を詠むのもまったく同じことで、初めから自分の思う様子を新しく詠み出そうとすると、歌らしくもない、おかしなものばかりができて、後々までもそういう癖が取れにくいものなので、初学のうちは、言葉の続き方も心の趣も、ただ古い歌の跡に拠って詠み習うべきものなのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 うひ学びの輩の歌よむさま今の世にういまなびのともがらの、詠み出でたる歌は、聞こえぬ処を、聞こゆるさまにとりなおさば、古人の歌と、もはら同じくなること、常にあり。これさるべき事なり。いかにと云うに、ういまなびの程は、おおかた題をとりぬれば、まず昔の善き歌の集の中の、その題の歌どもを見て、その中の一つによりて、ここかしこ少しずつ詞を加えて、綴りなすならいなるを、大かた古人の善き歌は、その詞みな、必ず然云わではかなわぬさまにて、おおかた一もじも加え難き物なるを、いまだしき者の、心も得ず、ここかしこと替えぬれば、かえたる所の、必ずととのわぬわざなる故に、歌よく心得たる人の見て、そをととのうさまに引きなおせば、必ずまた本の古歌とひとしくはなるなり。さてさように古歌ともはら同じくては、新たに詠めるかい無きようなれども、うい学びの程のは、後まで、詠める歌数に入るべきにも有らざれば、そはとてもかくても有りぬべし。歌のさまこころえむ学びのためには、しばらくただおいらかにて、上の件のごとしたらむぞ善かるべき。さるを始めよりさかしだちて、人のふるさぬ珍しきふしを詠まむとせば、なかなかによこさまなる悪しき道にぞ、まどい入りぬべき。
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『玉勝間』八の巻 歌もふみもよくととのふはかたき事近き代の人の歌ども文どもを、見あつむるに、一ふしおかしと目とまる事は、ほどほどにあまたあめれど、それはた如何にぞや覚ゆる所は交りて、大かた瑕無くととのいたるは、おさおさ見えず。これは思えば、後の世にして、古えをまねぶ事は、いといと難きわざになむ有ける。古えのかしこき人々のだに、是れはしも、露の瑕なしと覚ゆるは、多かる中にも、少くなん有れば、まして今の人のは、いささかなる瑕をさえに、云いたてむは、あながちなるにや有らむ、されど同じくは、人のいささかも難ずべき節まぜぬさまにこそはあらまほしけれ。よき程にて、心をやるをば、もろこしの古えの人も、善からぬ事に云い置きけるをや。
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『玉勝間』十の巻 詩の事云へるから人の詞一ッ二ッ厳滄浪、詩話と云う物に、詩の是非は、必ずしも争わず、試みに己が詩を以て、之を古人の詩の中に置き、識者に与えて之を観しめ、弁ずること能わざれば則ち真の古人なり、と云える事あり。歌もさることなり。また王敬美が芸圃擷余と云うものに、余嘗て明卿の五七言律に服して謂う、他人の詩は、多く高き処に於て穏やかなるを失い、明卿の詩は、多く穏やかなる処に於て高きを蔵す、と云えり。これまた歌もさることなり。凡てもろこしにて、宋明の頃など、詩の事を論じたるに、歌とこころばえのもはら同じき、かかるたぐいの事多かり。若かりし程、こうようのからぶみどもをも、いささか見たりし中に、おかしと覚ゆるふしぶし、ぬき出でて書きおきつるが、ものの底に残れるを、引き出でて見れば、今もおかしき事どものまじれるを、ひとつ二つまたぬき出でつるなり。
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『玉勝間』四の巻 学者のまづかたきふしをとふ事物学ぶともがら、物知り人にあいて、物問うに、ともすればまづ、古書の中にも、世にかたき事として、誰も解きえぬふしをえり出でて、問うならいなり。たとえば書紀の斉明の御巻なる童謡、万葉にては、一の巻なる莫囂円隣云々と書ける歌などようのたぐいなり。こうようのかたき事を、まづ明らめまほしく思うも、学者のなべての心なれども、然らばやすき事どもは、皆よくあきらめ知れるかと、こころむれば、いとたやすき事どもをだに、いまだ得よくもわきまえず。さる者の、さしこえて、まづかたき節を明らめんとするは、いとあじき無きわざなり。よく聞こえたりと思いて、心もとどめぬ事に、思いの外なるひが心得の多かる物なれば、まづたやすき事を、いく度もかえさい考え、問いも明らめて、よく得たらん後にこそ、かたきふしをば、思いかくべきわざなれ。
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふりまづ古今集をよく心にしめおきて、さて件ンの千載集より新続古今集までは、新古今と玉葉風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし、然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほふしの草庵集といふ物などを、会席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也、此人の歌、かの二條家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき歌もさのみなければ也、其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず、但し歌よむ時にのぞみて、歌集を見ることは、癖になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし、たゞ集共をば、常々心がけてよく見るべき也、さてこれより近世のなべての、歌人のならひの、よろしからざる事共をいひて、さとさむとす、そはまづ道統といひて、其伝来の事をいみしきわざとして、尊信し、歌も教ヘも、たゞ伝来正しき人のをのみ、
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うひ山ぶみ・注[オ]後世風の中にもさまざまよきあしきふり和歌に師匠なしとのたまへるにあらずや、さて又世々の先達の立チおかれたる、くさぐさの法度掟の中には、かならず守るべき事も多く、又中にはいとつたなくして、必ズかゝはるまじきも多きことなるに、ひたぶるに固くこれを守るによりて、返て歌のさまわろくなれることも、近世はおほし、すべて此道の掟は、よきとあしきとをえらびて、守るべき也、ひたすらになづむべきにはあらず、又古人の歌は、みな勝れたる物のごとくこゝろえ、たゞ及ばぬ事とのみ思ひて、そのよしあしを考へ見んともせざるは、いと愚なること也、いにしへの歌といへども、あしきことも多く、歌仙といへども、ことごとに勝れたる物にもあらざれば、たとひ人まろ貫之の歌なりとも、実によき歟あしき歟を、考へ見て、及ばぬまでも、いろいろと評論をつけて見るべき也、すべて歌の善悪を見分る稽古、これに過たる事なし、大に益あること也、然るに近世の歌人のごとく、及ばぬ事とのみ心得居ては、すべて歌の善悪を見分べき眼の、明らかになるよしなくして、みづからの歌も、
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