玉勝間 / 四の巻 また
兩部神道なる者の云はく、眞如の變動に依て、無量の自在萬像を生じ、物に體して殘さざれども、言語道斷にして、視るにも見えず、聞けども聞えずと云へり。さて斯く云ひながら、又世界に不思議と云ふ物一事も無しと、常に云ふはいかにぞや。言語道斷と云へる、それ即ち不思議にあらずや。
新字:両部神道なる者の云はく、真如の変動に依て、無量の自在万像を生じ、物に体して残さざれども、言語道断にして、視るにも見えず、聞けども聞えずと云へり。さて斯く云ひながら、又世界に不思議と云ふ物一事も無しと、常に云ふはいかにぞや。言語道断と云へる、それ即ち不思議にあらずや。
書き下し
両部神道なる者の云わく、真如の変動に依りて、無量の自在万像を生じ、物に体して残さざれども、言語道断にして、視るにも見えず、聞けども聞こえずと云えり。さてかく云いながら、また世界に不思議と云う物一事も無しと、常に云うはいかにぞや。言語道断と云える、それ即ち不思議にあらずや。
現代語訳
両部神道を奉じる者が言うには、「真如の変動によって、無量の自在な万象を生じ、あらゆる物に体を具えて残すところがないけれども、言語道断(言葉では言い表せない)であって、見ようとしても見えず、聞こうとしても聞こえない」と言っている。さてこのように言いながら、また「世界に不思議というものは一つもない」といつも言っているのは、どういうことか。言語道断と言っているのは、それこそすなわち不思議ではないか。
解説
両部神道の説に潜む自己矛盾を、短く鋭く突いた一段である。彼らは、真如が変動して万象を生み、万物に行き渡っているが、それは言葉で言い表せず、見ても見えず聞いても聞こえない、と説く。ところが同じ者たちが、この世界に不思議なことなど一つもない、すべては理で説明できる、と常々言っている。宣長は、言葉で言い表せないと言うなら、それこそが不思議ではないか、と切り返す。前段で、物の理を押し詰めればついには不可思議に行き着くと述べたことを、相手の言葉を使って証明したのである。理で割り切れないものを認めながら、すべて理で説明できると言い張る態度の矛盾は、今の議論にもしばしば見られる。相手の説の内側から論理の破れを示す、宣長の論争の技が光る段である。
関連する章句
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