玉勝間 / 四の巻 両部神道
さて勝を取って、劣を捨つと云ふ事こそ、いとをかしけれ。勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ。唯だみな己が心にかなへるを勝とし、己が心にかなはざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそ有れ、その勝劣は、何をもてか證さむ。すべてまことの理は、測りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思ひ、これ當然の理なりと思へども、あたらぬ事のみ多かるを、凡人の心もて、今日目の前なる小き物のことわりをもて、いかでか天地の萬の物を定むる事を得む。かの宋儒の格物窮理など云ふたぐひ、いみしきひがことなり。殊に此兩部神道と云ふ物は、唯だ己が心を主人とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせて、かりつかひたる物にして、神の御典をも、佛の說をも、儒の言をも、己が心の如くに說なしがたき所をば、みな方便ぞ假說ぞ表事ぞなど云ひなして、ひたぶるに思ふままに說たるは、佛の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道に有らざる事は、さらにも云はず。
新字:さて勝を取って、劣を捨つと云ふ事こそ、いとをかしけれ。勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ。唯だみな己が心にかなへるを勝とし、己が心にかなはざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそ有れ、その勝劣は、何をもてか証さむ。すべてまことの理は、測りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思ひ、これ当然の理なりと思へども、あたらぬ事のみ多かるを、凡人の心もて、今日目の前なる小き物のことわりをもて、いかでか天地の万の物を定むる事を得む。かの宋儒の格物窮理など云ふたぐひ、いみしきひがことなり。殊に此両部神道と云ふ物は、唯だ己が心を主人とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせて、かりつかひたる物にして、神の御典をも、仏の説をも、儒の言をも、己が心の如くに説なしがたき所をば、みな方便ぞ仮説ぞ表事ぞなど云ひなして、ひたぶるに思ふままに説たるは、仏の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道に有らざる事は、さらにも云はず。
書き下し
さて勝を取りて、劣を捨つと云う事こそ、いとおかしけれ。勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ。ただみな己が心にかなえるを勝とし、己が心にかなわざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそ有れ、その勝劣は、何をもてか証さむ。すべてまことの理は、測りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思い、これ当然の理なりと思えども、あたらぬ事のみ多かるを、凡人の心もて、今日目の前なる小さき物のことわりをもて、いかでか天地の万の物を定むる事を得む。かの宋儒の格物窮理など云うたぐい、いみしきひがことなり。殊にこの両部神道と云う物は、ただ己が心を主人とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせて、かりつかいたる物にして、神の御典をも、仏の説をも、儒の言をも、己が心の如くに説きなしがたき所をば、みな方便ぞ仮説ぞ表事ぞなど云いなして、ひたぶるに思うままに説きたるは、仏の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道に有らざる事は、さらにも云わず。
現代語訳
さて「勝れたところを取って劣ったところを捨てる」という事こそ、まことにおかしい。勝れているとも劣っているとも、何によって定めたのか。ただみな、自分の心にかなうものを勝れているとし、自分の心にかなわないものを劣っているとしたのであって、みな私的な勝劣であるが、その勝劣は何によって証明できようか。およそ本当の理は測りがたいものであるから、自分こそ勝れていると思い、これは当然の理だと思っても、当たらない事ばかり多いのに、凡人の心で、今日目の前にある小さな物の理をもって、どうして天地の万物を定めることができようか。あの宋儒の格物窮理などという類は、ひどい誤りである。とりわけこの両部神道というものは、ただ自分の心を主人とし、神と聖人とを召使いとして、心にまかせて借り使ったものであって、神の御典も、仏の説も、儒の言葉も、自分の心のように説きなしにくい所は、みな方便だ、仮の説だ、象徴だなどと言いくるめて、ひたすら思うままに説いたのは、仏の道でもなく、儒の道でもなく、まして神の道でないことは言うまでもない。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』四の巻 両部神道ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
-
『玉勝間』四の巻 両部神道大かた天の下の神社、中昔より、ほうしの仕うるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗に唯一と云い、ほうしの仕うる社を、両部と云う。また別に両部神道と名のる一ながれも有り。その説に云わく、聖徳太子、舎人親王もみな両部神道なり、さて空海諸道に通達して、神道の奥義をきわめ、この両部神道を中興せり、嵯峨の天皇これを叡感有りて、両部神道と云う号を下し給うと云えり。まづ是れ皆そら事なり。さてその説ざまは、神儒仏の三教の、勝を取りて劣を捨つと云い、また今日目前の万物の理を以て、天地の始終をも知ると云えり。今論めて云わく、これ皆いみしきひがことなり。まづ三教の勝をとるとは云えれども、その説ける事どもを見るに、ただ儒と仏とをのみ取りて、神の道の意を取れる事はさらに無し。すべて仏の道をむねとして、儒をまじえ、また天文の事を多く云えり。かくて神の道は、ただ書紀の神代の巻の、天地のはじまりの所の、潤色の漢文と、国常立など神の御名を、おりおり出だせるばかりにこそあれ、その道の意とては、露ばかりも見えず。いかでか是れを神道と名づくる事を得む。また天文の事も、さらに道にはあずからぬ事なり。
-
『玉勝間』四の巻 ひとむきにかたよることの論ひ世の物知り人の、他の説の悪しきをとがめず、一むきにかたよらず、これをもかれをも捨てぬさまに論をなすは、多くはおのが思いとりたる趣をまげて、世の人の心に、洽くかなえむとするものにて、まことに有らず、心ぎたなし。たとい世の人は、いかにそしるとも、わが思う筋をまげて、従うべき事にはあらず、人のほめそしりにはかかわるまじきわざぞ。大かた一むきにかたよりて、他説をば、悪ろしととがむるをば、心せばく善からぬ事とし、ひとむきにはかたよらず、他説をも、悪ろしとは云わぬを、心ひろくおいらかにて、善しとするは、なべての人の心なめれど、必ずそれさしも善き事にもあらず。よる所定まりて、そを深く信ずる心ならば、必ずひとむきにこそよるべけれ、それにたがえる筋をば、とるべきに有らず。善しとしてよる所に異なるは、皆悪しきなり、これ善ければ、かれは必ず悪しきことわりぞかし。然るをこれも善し、またかれも悪しからずと云うは、よる所さだまらず、信ずべき所を、深く信ぜざるものなり。
-
『玉勝間』十四の巻 世の人まことの道に心つかざる事もろこしの国には、道教と云うもの、世々に盛んに行われて、大かた仏道とひとしきばかりなり。この道、老子を祖とはたつれども、老子が意とはいたく異にして、ただあやしき戯れわざのようなる事にて、そのむねを極むれば、ようなきいたずら事なり。皇国に、この道のわたりもうでこざるは幸いなり。然は有れども、天の下の人の心、仏道と儒道とに、ことごとく奪われ果てたるは、又なげかしき事なり。大かた天下の人、上中下、さかしき愚かなる、おしなべて、奥山の山賤までも、仏を信ぜざるは一人も無く、その中に、角なる字をもいささか読むほどの者は、又なかば儒意をまじえて、万ずの事を思い定むめり。されば、神のまことの道を思う人は、千万人の中に、ただ一人二人にて、その余は神社につかうる人の中に、稀れ稀れさすがに己が家の業と思い得て、神の道を尊ぶもあれど、さる人も、多くは仏意儒意なり。又神の道と云うも、皆儒仏によりて説きまげたる物なれば、まことの道は、大かた絶えはてたるも同じ事なり。
-
『玉勝間』七の巻 道を説く事はあだし道道の意にも世の人のとりとらざるにもかかはるまじき事道を説かむに儒にまれ、老にまれ、仏にまれ、稀れ稀れに心ばえの通える所の有るを捉えて、おのが心のひくかたにまかせて、通わぬ所をも、すべてその筋に引きよせて説きなし、或いはまた他道と同じからん事を、いといさけて、殊更にけじめを見せ、さまを変えて説かむとする、これら皆いとあじきなくしいたるわざなり似ざらむも似たらむも、異ならむも同じからむも、とにかくに異道の意には、いささかもかかわるべきわざにあらず。またかく説きたらむには、世にうけひかじ、かく云いてこそ、人は信ぜめなど、世の人の心をとりて、いささかも説き曲げむ事は、またいと有るまじく、心ぎたなきわざなり。すべて世の人の褒め謗りをも、思うべきにはあらず。たとい、あだし道々とは、うらうえのたがいあり、世にも絶えて信ずる人無からむにても、ただ神の御ふみの趣のままにこそは、説くべきわざなりけれ。
-
『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る