玉勝間 / 四の巻 また
儒の道には、よろづを陰陽の理をもて說き、そのうへに又太極無極と云ふものを說けり。然れども其の太極無極は、いかなることわり、いかなる故にて、太極無極なるぞと云はむに、答ふべきよし無きが故に、かの兩部神道には、佛の道の密敎の義によりて、今一きは上、を說て、これを阿字眞如海變動自在の所作など云ひて、もろもろの道に勝れたる如く、ほこれども、その阿字眞如は、又いかなる理、いかなる因緣にて、變動自在なるぞと云はむには、いかが答へむとする。すべて物の理は、つぎつぎにその本をおし極めもて行くときは、いかなる故とも、いかなる理とも、知るべきにあらず、つひに皆あやしきに落つるなり。然れば陰陽も太極無極も、阿字眞如も、みな假りのさへづりぐさにして、まことには其理ある事無く、えう無きいたづら事なりかし。又眞如の無明を生ずると云ふも、いといと心得ず。眞如ならんには、無明は生ずまじき事なるに、いかにして生ずるにか、そのことわりこそ聞かまほしけれ。不覺によるが故に、忽然と無明を生ずと云ふなれど、然らば其の不覺は、又何の因緣、いかなる理にて、不覺なるぞと云はばいかに。又不覺ならんからに、生ずべき因緣ことわり無くては、無明の生ずべきよし無し、その因緣ことわりはいかに、いかに。
新字:儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうへに又太極無極と云ふものを説けり。然れども其の太極無極は、いかなることわり、いかなる故にて、太極無極なるぞと云はむに、答ふべきよし無きが故に、かの両部神道には、仏の道の密教の義によりて、今一きは上、を説て、これを阿字真如海変動自在の所作など云ひて、もろもろの道に勝れたる如く、ほこれども、その阿字真如は、又いかなる理、いかなる因縁にて、変動自在なるぞと云はむには、いかが答へむとする。すべて物の理は、つぎつぎにその本をおし極めもて行くときは、いかなる故とも、いかなる理とも、知るべきにあらず、つひに皆あやしきに落つるなり。然れば陰陽も太極無極も、阿字真如も、みな仮りのさへづりぐさにして、まことには其理ある事無く、えう無きいたづら事なりかし。又真如の無明を生ずると云ふも、いといと心得ず。真如ならんには、無明は生ずまじき事なるに、いかにして生ずるにか、そのことわりこそ聞かまほしけれ。不覚によるが故に、忽然と無明を生ずと云ふなれど、然らば其の不覚は、又何の因縁、いかなる理にて、不覚なるぞと云はばいかに。又不覚ならんからに、生ずべき因縁ことわり無くては、無明の生ずべきよし無し、その因縁ことわりはいかに、いかに。
書き下し
儒の道には、よろづを陰陽の理をもて説き、そのうえにまた太極・無極と云うものを説けり。然れどもその太極無極は、いかなることわり、いかなる故にて、太極無極なるぞと云わむに、答うべきよし無きが故に、かの両部神道には、仏の道の密教の義によりて、今一きわ上を説きて、これを阿字真如海変動自在の所作など云いて、もろもろの道に勝れたる如く、ほこれども、その阿字真如は、またいかなる理、いかなる因縁にて、変動自在なるぞと云わむには、いかが答えむとする。すべて物の理は、つぎつぎにその本をおし極めもて行くときは、いかなる故とも、いかなる理とも、知るべきにあらず、ついに皆あやしきに落つるなり。然れば陰陽も太極無極も、阿字真如も、みな仮りのさえずりぐさにして、まことにはその理ある事無く、よう無きいたづら事なりかし。また真如の無明を生ずると云うも、いといと心得ず。真如ならんには、無明は生ずまじき事なるに、いかにして生ずるにか、そのことわりこそ聞かまほしけれ。不覚によるが故に、忽然と無明を生ずと云うなれど、然らばその不覚は、また何の因縁、いかなる理にて、不覚なるぞと云わばいかに。また不覚ならんからに、生ずべき因縁ことわり無くては、無明の生ずべきよし無し、その因縁ことわりはいかに、いかに。
現代語訳
儒の道では、万事を陰陽の理によって説き、そのうえにまた太極・無極というものを説いている。しかしその太極・無極は、どのような理、どのような理由で太極・無極なのかと問われたら、答えようがないので、あの両部神道では、仏の道の密教の教義によって、もう一段上を説いて、これを「阿字真如海変動自在の所作」などと言って、諸々の道に勝っているかのように誇っているが、その阿字真如はまたどのような理、どのような因縁によって変動自在なのかと問われたら、どう答えようとするのか。およそ物の理は、次々にその本を押し極めてゆくときは、どういう理由とも、どういう理とも、知ることのできるものではなく、ついにはみな不可思議に行き着くのである。だから陰陽も太極・無極も阿字真如も、みな仮のさえずり(口先のおしゃべり)の種であって、本当はそういう理があるわけではなく、不要な無駄事なのである。また「真如が無明を生じる」というのも、まったく納得できない。真如であるならば無明は生じるはずのないことなのに、どうして生じるのか、その理をこそ聞きたいものである。「不覚によるために、忽然と無明を生じる」と言うのだが、それならその不覚はまた何の因縁、どういう理で不覚なのかと問うたらどうか。また不覚であるからといって、生じるべき因縁や理がなくては、無明が生じるはずもない。その因縁と理はどうなのか、どうなのか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 また両部神道なる者の云わく、真如の変動に依りて、無量の自在万像を生じ、物に体して残さざれども、言語道断にして、視るにも見えず、聞けども聞こえずと云えり。さてかく云いながら、また世界に不思議と云う物一事も無しと、常に云うはいかにぞや。言語道断と云える、それ即ち不思議にあらずや。
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『玉勝間』一の巻 漢意漢国には、おおよそ人の禍福、国の治乱など、すべて世の中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道・天命・天理など云いて、これをうえなく尊く畏るべき物とぞすなる。さるはすべて漢国には、まことの道伝わらずして、万の事はみな、神の御心御しわざなる事をえ知らざるが故に、みだりに造りもうけて云えるものなり。そもそも天は、ただ天つ神たちのまします御国のみにこそ有れ、心ある物にあらざれば、天命など云うこと有るべくもあらず。神を尊み畏れずして、天を尊み畏るるは、たとえば、いたづらに宮殿をのみ尊みおそれて、その君を尊み畏るる事を知らざるが如し。然れども、外国には、万は神の御しわざなる事をえ知らざれば、この天道・天理の説を信じ居らむも、さる事なるを、皇国には、まことの道の正しき伝えの有りながら、それをば尋ね思わずして、ただ外国のみだりなる説をのみ信じて、天と云う事を、いみじき事に心得居て、万の事に、その理をのみ云うは、いかにぞや。また太極・無極・陰陽・乾坤・八卦・五行など、ことごとしくこちたく云うなる事共も、ただ漢国人のわたくしの造説にて、まことにはその理とては有る事無し。
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『玉勝間』四の巻 両部神道さて勝を取りて、劣を捨つと云う事こそ、いとおかしけれ。勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ。ただみな己が心にかなえるを勝とし、己が心にかなわざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそ有れ、その勝劣は、何をもてか証さむ。すべてまことの理は、測りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思い、これ当然の理なりと思えども、あたらぬ事のみ多かるを、凡人の心もて、今日目の前なる小さき物のことわりをもて、いかでか天地の万の物を定むる事を得む。かの宋儒の格物窮理など云うたぐい、いみしきひがことなり。殊にこの両部神道と云う物は、ただ己が心を主人とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせて、かりつかいたる物にして、神の御典をも、仏の説をも、儒の言をも、己が心の如くに説きなしがたき所をば、みな方便ぞ仮説ぞ表事ぞなど云いなして、ひたぶるに思うままに説きたるは、仏の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道に有らざる事は、さらにも云わず。
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『玉勝間』十四の巻 世の中の万の事は皆神の御しわざなる事世の中の万ずの事はみなあやしきを、これ奇しく妙なる神の御しわざなる事をえ知らずして、己がおしはかりの理を以て云うはいとおこなり。いかにとも知られぬ事を理を以てとかく云うは、から人のくせなり。その云う所の理は、いかさまにも云えばいわるる物ぞ。かれ古えのから人の云いおける理、後世にいたりてひがことなる事のあらわれたる事多し。またついに理のはかり難き事にあえば、これを天と云いてのがるる、皆神ある事を知らざる故なり。
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『玉勝間』一の巻 漢意然るに神の御典を説くともがら、もはらこれらの理をもて説くなるは、いかなるしれわざぞや。近き頃にいたりて、儒意をのぞきて説くと思う人も、なおこの天理・陰陽などの説のひが事なるをば、えさとらず、その垣内を出ではなるる事あたわざるは、なお漢意のきよく去らで、かれにまどえる夢の、いまだ確かにさめざるなり。また天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小さき理にかかわりなづみて、まことの道の、微妙なる深きことわり有ることを思わざるものなり。この大御神天津日にましまして、その御孫命天より降り坐して、御国しろしめす御事は、人のちいさきさとりをもて、その理は測り知らるべききわにあらず。おのが智もてはかり知る事あたわざるをもて、その理無しと思うは、例の小さきから意なるをや。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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