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うひ山ぶみ / 注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたる

いさゝかも古ヘの意にかなへることなく、說クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の說を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神學者流のともがら、かの佛道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一「なる故に、これを假て說也、かの佛を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの佛道によりて說。

新字:いさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一「なる故に、これを仮て説也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説。

書き下し

いさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一なる故に、これを仮て説也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説

現代語訳

少しも古代の意にかなうことがなく、説くところはことごとく儒道であって、ただ名ばかりが神道なのであった。だから世の儒者などが、この神道家の説を聞いて、神道というものは近い世に作られたものだといって卑しめ笑うのは、まことにもっともである。この神学者流の人々が、仏道に拠って説いたものを誤りと知りながら、また自分たちの儒道に拠ったものも同じく誤りであることを悟れないのは、おかしなことである。こう言うと、その人々は「神道と儒道とはその帰するところが一つであるから、これを借りて説くのである。あの仏を無理にこじつけた類とは違う」と言うようであるが、そう思うのは、この道の意を悟れないからである。もしそのように言うならば、あの仏道に拠って説く

解説

注[ホ]の続きで、宣長は近世の神道家に向けた批判を重ねる。説くところはすべて儒道で、名前だけが神道である。だから儒者たちに「神道など近世の作り物だ」と笑われても仕方がない、とまで言う。神道家たちは「神道と儒道は根本が一致するから儒を借りるのであり、仏と無理に結びつけた昔の説とは違う」と弁明するが、宣長はそれを道の意を悟っていない証拠だとして退ける。仏を借りるのは誤りだと分かるのに、儒を借りることの誤りには気づかない。自分が拠って立つ前提は見えにくいという、人の認識の癖を突いた指摘である。他人の偏りは見えても、自分の偏りは「一致」や「普遍」という言葉で正当化されやすい。自分の前提を、他人の誤りと同じ目で点検しているだろうか。

この章句が説くこと

神道儒道漢意こじつけ前提

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