玉勝間 / 四の巻 両部神道
大かた天ノ下の神社、中昔より、ほうしの仕ふるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗に唯一と云ひ、ほうしの仕ふる社を、兩部と云ふ。又別に兩部神道と名のる一ながれも有り。其說に云はく、聖德太子、舍人親王もみな兩部神道なり、さて空海諸道に通達して、神道の奧義をきはめ、此兩部神道を中興せり、嵯峨ノ天皇これを叡感有りて、兩部神道と云ふ號を下し給ふと云へり。まづ是れ皆そら事なり。さて其說ざまは、神儒佛の三敎の、勝を取て劣を捨つと云ひ、又今日目前の萬物の理を以て、天地の始終をも知ると云へり。今論めて云はく、これ皆いみしきひがことなり。まづ三敎の勝をとるとは云へれども、その說る事どもを見るに、唯だ儒と佛とをのみ取て、神ノ道の意を取れる事はさらに無し。すべて佛の道をむねとして、儒をまじへ、又天文の事を多く云へり。斯くて神ノ道は、唯だ書紀の神代ノ卷の、天地のはじまりの所の、潤色の漢文と、國常立など神の御名を、をりをり出せるばかりにこそあれ、其道の意とては、露ばかりも見えず。いかでか是れを神道と名づくる事を得む。又天文の事も、さらに道にはあづからぬ事なり。
新字:大かた天ノ下の神社、中昔より、ほうしの仕ふるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗に唯一と云ひ、ほうしの仕ふる社を、両部と云ふ。又別に両部神道と名のる一ながれも有り。其説に云はく、聖徳太子、舎人親王もみな両部神道なり、さて空海諸道に通達して、神道の奥義をきはめ、此両部神道を中興せり、嵯峨ノ天皇これを叡感有りて、両部神道と云ふ号を下し給ふと云へり。まづ是れ皆そら事なり。さて其説ざまは、神儒仏の三教の、勝を取て劣を捨つと云ひ、又今日目前の万物の理を以て、天地の始終をも知ると云へり。今論めて云はく、これ皆いみしきひがことなり。まづ三教の勝をとるとは云へれども、その説る事どもを見るに、唯だ儒と仏とをのみ取て、神ノ道の意を取れる事はさらに無し。すべて仏の道をむねとして、儒をまじへ、又天文の事を多く云へり。斯くて神ノ道は、唯だ書紀の神代ノ巻の、天地のはじまりの所の、潤色の漢文と、国常立など神の御名を、をりをり出せるばかりにこそあれ、其道の意とては、露ばかりも見えず。いかでか是れを神道と名づくる事を得む。又天文の事も、さらに道にはあづからぬ事なり。
書き下し
大かた天の下の神社、中昔より、ほうしの仕うるが多くなれるから、さらぬ社をば、俗に唯一と云い、ほうしの仕うる社を、両部と云う。また別に両部神道と名のる一ながれも有り。その説に云わく、聖徳太子、舎人親王もみな両部神道なり、さて空海諸道に通達して、神道の奥義をきわめ、この両部神道を中興せり、嵯峨の天皇これを叡感有りて、両部神道と云う号を下し給うと云えり。まづ是れ皆そら事なり。さてその説ざまは、神儒仏の三教の、勝を取りて劣を捨つと云い、また今日目前の万物の理を以て、天地の始終をも知ると云えり。今論めて云わく、これ皆いみしきひがことなり。まづ三教の勝をとるとは云えれども、その説ける事どもを見るに、ただ儒と仏とをのみ取りて、神の道の意を取れる事はさらに無し。すべて仏の道をむねとして、儒をまじえ、また天文の事を多く云えり。かくて神の道は、ただ書紀の神代の巻の、天地のはじまりの所の、潤色の漢文と、国常立など神の御名を、おりおり出だせるばかりにこそあれ、その道の意とては、露ばかりも見えず。いかでか是れを神道と名づくる事を得む。また天文の事も、さらに道にはあずからぬ事なり。
現代語訳
おおよそ天下の神社は、中古以来、法師が奉仕するものが多くなったので、そうでない神社を俗に「唯一」と言い、法師が奉仕する神社を「両部」と言う。また別に「両部神道」と名のる一派もある。その説に言うには、「聖徳太子も舎人親王もみな両部神道である。さて空海は諸道に通達して神道の奥義を極め、この両部神道を中興した。嵯峨天皇はこれに感心なさって、両部神道という号をお下しになった」と言っている。まずこれはみな作り事である。さてその説の内容は、神・儒・仏の三教の勝れたところを取って劣ったところを捨てると言い、また今日目の前の万物の理によって、天地の始めと終わりをも知ると言っている。今論じて言うが、これはみなひどい誤りである。まず三教の勝れたところを取るとは言っているけれども、その説いている事どもを見ると、ただ儒と仏だけを取って、神の道の意を取った事はまったくない。すべて仏の道を主として儒を交え、また天文の事を多く言っている。こうして神の道については、ただ日本書紀の神代の巻の天地の始まりの所の潤色された漢文と、国常立尊などの神の御名を時々出しているだけであって、その道の意としては、露ほども見えない。どうしてこれを神道と名づけることができようか。また天文の事も、まったく道には関わらない事である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 両部唯一と云ふ事天下の神社のうち、神人のみつかうる社を、俗に唯一と云い、法師のつかうる社を、両部と云う。また両部神道とて教うる一ながれもあり、両部とは、仏の道の密教の、胎蔵界、金剛界の両部と云う事を、神の道に合わせたるを、両部習合の神道と云えり。かの両部を以て、神道に合わせたるよしなり。部の字にて心得べし。神と仏とをさして云う両にはあらず、さてまた唯一と云うは、両部神道と云うもののあるにつきて、その両部をまじえざるよしなり。されば神の道の唯一なるは、もとよりの事ながら、その名は両部神道有りての後なり。然るにこの名を、両部に対えたるにはあらず、天人唯一の義なりと云いなせるは、いみしきひがことなり。天と人とひとつなりとは、いかなることわりぞや。そはただ天をうえも無くいみしき物にすなる、漢意より云いなしたる事にて、いたく古の意にそむけり。そもそも天は、天つ神たちのまします御国にこそあれ、人はいかでかそれと一つなることわりあらむ。世の物しり人みな、古のこころを得さとらず、ひたぶるに漢意にまどえるから、何につけても、ことわり深げなることを説かむとて、しいてかかる事をも云うにぞ有りける。
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『玉勝間』四の巻 両部神道ただおのがわたくしの新ばり道なるを、神道としも名づけたるは、いかなる故ぞと云うに、儒の道仏の道は、あだし国よりわたりもうで来つる道にして、神の道ぞ、皇国の本よりの道なれば、後の世と云えども、世の人なお、他国の道によらんよりは、同じくは吾が国の道をこそは尊むべけれ、と思う心も、さすがに多く有る物なれば、さる世の人をおもむけむ為に、わが国の道と云う名をかりたる物にして、このともがらの祖とする、昔の法師なども、然かにぞ有りける。そのかみなお国々の民どもは、もはら神を尊みあおげる故に、まづその神を引きこめて、おのが道の中の物にしなして、かしこくも仏の奴の如く説きなして、人の心をうつさせたる物ぞかし。ちかき世の両部神道の、神道と云う名も、この心ばえを以てなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上此邦ノ神道ハ。最初ニ儒仏ノ道ヲ牽合セテ両部習合ト云。ソノ次ニ仏者ノ徒カ神道ノ起リタルヲ妬ミ。本迹縁起ノ神道ヲ説テ。表ハ神祇ヲ顕ハシテ。底裏ハ此ヲ仏道ニ帰スル。其後一般ノ祢宜神主。仏法ノ世ニ盛ナルヲ妬ミ。此二途ヲ破シテ。唯一宗源ノ神道ヲ説ク。其後ニハ此ヲ王道ニ帰シテ。王道神道ヲ説ク。近比ハ表ニ神道ヲ説テ。底裏ハ儒道ニ帰ス。三国共ニ人情ハ一様トナルト。或者カ云ニハ。是ハ上ノ今日ノ有ルヘキ道ト立シ者ノ見識ナルト。
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『玉勝間』四の巻 両部神道さて勝を取りて、劣を捨つと云う事こそ、いとおかしけれ。勝とも劣とも、何によりて定めたるぞ。ただみな己が心にかなえるを勝とし、己が心にかなわざるを劣とせるにて、みなわたくしの勝劣にこそ有れ、その勝劣は、何をもてか証さむ。すべてまことの理は、測りがたき物なれば、おのれこそ、勝と思い、これ当然の理なりと思えども、あたらぬ事のみ多かるを、凡人の心もて、今日目の前なる小さき物のことわりをもて、いかでか天地の万の物を定むる事を得む。かの宋儒の格物窮理など云うたぐい、いみしきひがことなり。殊にこの両部神道と云う物は、ただ己が心を主人とし、神と聖人とを、奴僕として、心にまかせて、かりつかいたる物にして、神の御典をも、仏の説をも、儒の言をも、己が心の如くに説きなしがたき所をば、みな方便ぞ仮説ぞ表事ぞなど云いなして、ひたぶるに思うままに説きたるは、仏の道にもあらず、儒の道にもあらず、まして神の道に有らざる事は、さらにも云わず。
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたる輩も又、神道とても、仏の道の外なることなし、一致也とぞいふべき、これら共に、おのおの其道に惑へるから、然思ふ也、まことの神道は、儒仏の教ヘなどとは、いたく趣の異なる物にして、さらに一致なることなし、すべて近世の神学家は、件のごとくなれば、かの漢学者流の中の、宋学といふに似て、いさゝかもわきめをふらず、たゞ一すぢに道の事をのみ心がくめれども、ひたすら漢流の理窟にのみからめられて、古の意をば、尋ねんものとも思はず、其心を用るところ、みな儒意なれば、深く入ルほど、いよいよ道の意には遠き也、さて又かの仏の道によりて説るともがらは、その行法も、大かた仏家の行法にならひて、造れる物にして、さらに皇国の古ヘの行ひにあらず、又かの近世の儒意の神道家の、これこそ神道の行ひよとて、物する事共、葬喪祭祀等の式、其外も、世俗とかはりて、別に一種の式を立て行ふも、これ又儒意をまじへて、作れること多くして、全く古ヘの式にはあらず、すべて何事も、古ヘの御世に、漢風をしたひ用ひられて、
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うひ山ぶみ・注[ホ]此道は、古事記書紀の二典に記されたるいさゝかも古ヘの意にかなへることなく、説クところ悉皆儒道にて、たゞ名のみぞ神道にては有ける、されば世の儒者などの、此神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也とて、いやしめわらふは、げにことわり也、此神学者流のともがら、かの仏道によりてとけるをば、ひがこととしりながら、又おのが儒道によれるも、同じくひがことなる事をば、えさとらぬこそ可笑しけれ、かくいへば、そのともがらは、神道と儒道とは、その致一なる故に、これを仮て説也、かの仏を牽合したる類ヒにはあらず、といふめれども、然思ふは、此道の意をえさとらざる故也、もしさやうにいはば、かの仏道によりて説
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