玉勝間 / 四の巻 李部王ノ記
李部王の記と云ふふみの名の李ノ字、心得がたし。西宮記北山抄などに引れたるには、吏ノ字をのみ書かれたり。台記などにすら、吏ノ字を書かれたり。李は後に誤れるものなるべし。
書き下し
李部王の記と云うふみの名の李の字、心得がたし。西宮記・北山抄などに引かれたるには、吏の字をのみ書かれたり。台記などにすら、吏の字を書かれたり。李は後に誤れるものなるべし。
現代語訳
「李部王記」という書名の「李」の字は、納得しがたい。西宮記や北山抄などに引用されているものには、「吏」の字ばかりを書いている。台記などにさえ「吏」の字を書いている。「李」は後に誤ったものであろう。
解説
平安時代の日記「李部王記」の書名の字を正した短い考証である。この日記は醍醐天皇の皇子重明親王が記したもので、親王が式部卿であったことから、式部省の唐名「吏部」を取って吏部王と呼ばれた。宣長は、西宮記や北山抄、さらには台記といった古い書物に引かれる際にはみな「吏」の字であることを挙げ、「李」は後世の誤りだろうと言う。吏と李は音が同じで字形も近いため、写し伝えるうちに取り違えられやすい。書名の一字でも、古い引用例を集めて本来の形を確かめる。宣長が古写本や古い引用を丹念に照らし合わせたのは、伝わる間に生じた誤りを見分けるためであった。今流布している形を正しいと思い込まず、古い形に遡って確かめる姿勢である。
関連する章句
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