玉勝間 / 四の巻 侍ると云ふ詞
侍ると云ふ詞、伊勢物語には、唯だ二つならでは無し。その二つは、せうそこ文の中に有るなり。
書き下し
侍ると云う詞、伊勢物語には、ただ二つならでは無し。その二つは、しょうそこ文の中に有るなり。
現代語訳
「侍る」という言葉は、伊勢物語にはただ二つしかない。その二つは、手紙の文の中にあるのである。
解説
伊勢物語の中の「侍る」という語の数を数えた、ごく短い一段である。「侍る」は、相手に対してへりくだり、丁寧に述べる語で、源氏物語など後の物語では会話にも地の文にも多く現れる。ところが伊勢物語では二例しかなく、それも手紙の文の中だけだ、と宣長は言う。地の文にも会話にも使わず、改まった書き言葉である手紙にだけ見えるということは、その頃の「侍る」がまだ限られた場面の語だったことをうかがわせる。語の数を実際に数え、どこに出るかを押さえることで、時代による言葉遣いの変化が見えてくる。印象ではなく、数えて確かめるという宣長の実証の方法が、わずか一行によく表れている。
関連する章句
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つむかし男久しう云云、真名本に、云えりければの下に、女とあり。むかし女の、あだなる男の云云、女のの、の文字、ひが事なり。すべてのちょう辞は、心得有りて、おくべき所と、必ず置くまじき所との有る事なるを、これはさるわきまえをも知らぬ、後の人の、何心も無く加えたるなるべし。真名本に、女のと云う事無し。それも女と云う言足らず。むかし男、女のまだ世へずと云云、このくだり詞ととのわず。物聞えたるを、後に聞きて、などこそ有るべけれ。
-
『玉勝間』四の巻 御と云ふ詞のつかひざまの一つ源氏物語に、仏の御かりょうびんがの声、御ひとつ腹、御まえわたり、宮の御侍従の乳母、仏の御同じ帳台、宮の御二条の北の方、など有るこれらの御ちょう詞、今の世の心にて思えば、仏のかりょうびんがの御こえ、ひとつ御はら、宮の侍従の御乳母、仏の同じ御帳台、宮の二条の御北の方、と云うべきに、置きどころかわりて聞こゆ、心得おくべし。御まえわたりも、御は、わたりへかかりて、前へはかからず。
-
『玉勝間』五の巻 またいせ物がたりは、物語のあるが中にも、おもしろく、詞すぐれたる物語にて、世にあまねくもて遊ぶ物語なるを、あやしう心得ぬふしどもも、所々まじれるは、後の人の、写しひがめたるなめり。さるを、やがてたすけて説かむとせば、なかなかにしい言にぞなりぬべき。又これはすべて例の作り物語にし有れば、在五中将にまれ、こと人にまれ、その人の上の事のたがいめなどは、咎むべきにも有らず。ただおかしく作りなしたる、ことのあやをこそ、とりめでて、歌まなびのたすけにも、文かくほんにもすべき業なれ。歌も稀には、得も云わず悪ろきも交じれり、さる心して見るべし。注釈どもは、あまた有る中に、云うべきは、契沖が臆断、師の古意ぞ有るを、たがいになん善き悪しき所は有りける。又共にいかにぞや覚ゆるふしも少なからず。おのれはた思い得たるふしども有りて、早くより、つぶさにしるさまほしく思いわたるを、めかり塩焼かねども、伊勢おのあまのいとま無くて、得しもはたさぬが、口惜しさに、せめてただこれかれと撰り出でて、いささか上の件には物しつるぞかし。
-
『玉勝間』八の巻 しるよしして平の維章と云える儒者の書ける和学弁と云うものに、伊勢物語に、春日の里にしるよししてと書けるは、知の字を知らぬ作者と見えたり、異邦の書に、知杭州、知袁州など書けるは、知の字、つかさどると訓む、此方の人は、文字に傍及と云うこと有るを知らぬ故、物によりて、読法の変ずるを知らず、と云えるは、知字のつかいざまをのみ知りて、志流と云う言に、傍及の有ることを知らざる、ひが事なり。かのしるよしは、古言に、天皇の天の下しろしめすなど申し、其外にも、上つ代より云える言にて、さらに知の字の傍及を知らずして云える詞にはあらざるをや。なお志流と云う言は、此外にも、傍及の意有ることなり。すべて皇国の言の意をば、よくも知らで、唯だ漢字の義をのみ捉えて、みだりなる事云う、このたぐい、儒者のつねなり。
-
『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ女はを、嫗はおの仮字にて、分かるるなり。又つけると云う詞もいかが。真名本に、世営と書けり。よこころあると訓むべし。色好む心の有る老女なり。あいえてしも、同じ本に、あい見てしと有るよろし。その次の詞も、かの本よろし。出でたつけしきは、男のなさけ有りて、嫗のがりゆかむと思いて、出でたつなり。いずくなりけん、けんと云う詞いかが。いずくなるらんと、など有るべきにや。もし又けんをたすけて云わば、物語の地の詞として、いずくにての事なりけんと見るべし。昔男いせの国なりける女云云、真字本に、女をと有るよろし。むかしそこには云云、真字本に、昔男と有り。むかし男、いせの国にいていきて云云、こは本は、いせの国なる女に、京にいていきて云云、と有りしが、二文字の重なれるによりて、京にと云う事の、後に落ちたるなり。次なる歌ども、必ず伊勢なる女とこそ聞えたれ。「いわまより云云、この歌の四の句、解き得たる人無し。しおいしおみちは、とまれかくまれと云う意なるを、海の詞にて云えるのみなり。今はともかくもあれ、末ついにはかい有りて、逢う事も有らんと云えるなり。きょうの御わざを題にての、きょうのは、その日のと有るべき言なり。
-
『玉勝間』十二の巻 屎まるをはこすと云ふ事くそを、この伊勢の国の山里人など、はこと云うことあり。そは古は然るべき人は、糞を箱もてとりて、捨てけるより出でて、古き詞にぞありける。ある物語書に、平仲が、本院の侍従と云う女房を、ふかく恋い思いたる事を云える中にいわく。思いわびて思うよう、この人(侍従を云う)かくおかしくとも、はこにしたらん嗅ぐことは、たれも同じようにこそあらめ、これをさがして、見かぎなどして、思いとまりなむと思いて云云、と云えり。はこにしたらむ事とは、糞を云えるなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る