玉勝間 / 四の巻 百首の歌
歌を百首そなへて詠むことは、源ノ重之ノ家集に、東宮より召しによりて詠める百首あり。春廿首、夏廿首、秋廿首、冬廿首、戀十首、雜十首なり。これらや初めならん。拾遺集にも、百首歌の中に源重之とて入れり。
新字:歌を百首そなへて詠むことは、源ノ重之ノ家集に、東宮より召しによりて詠める百首あり。春廿首、夏廿首、秋廿首、冬廿首、恋十首、雑十首なり。これらや初めならん。拾遺集にも、百首歌の中に源重之とて入れり。
書き下し
歌を百首そなえて詠むことは、源の重之の家集に、東宮より召しによりて詠める百首あり。春二十首、夏二十首、秋二十首、冬二十首、恋十首、雑十首なり。これらや初めならん。拾遺集にも、百首歌の中に源重之とて入れり。
現代語訳
歌を百首そろえて詠むことは、源重之(平安中期の歌人)の家集に、東宮のお召しによって詠んだ百首がある。春二十首、夏二十首、秋二十首、冬二十首、恋十首、雑十首である。これらが初めであろうか。拾遺集にも、「百首歌の中に」として源重之の名で入っている。
解説
歌を百首まとめて詠む「百首歌」の始まりを探った短い考証である。宣長は、源重之の家集に、東宮の召しによって詠んだ百首があり、春夏秋冬各二十首・恋十首・雑十首という構成であることを挙げ、これが初めではないかと推す。拾遺集にも「百首歌の中に」として重之の歌が採られていることが傍証となる。百首歌はのちに堀河百首をはじめ、題を組んで詠む形として広まり、歌人の修練と晴れの場の形式として重んじられた。宣長自身も生涯に膨大な数の歌を詠んでいる。一つの形式の起こりを、確かな用例から押さえておく。物事の始まりを伝説ではなく文献で確かめようとする、宣長の習いがここにも出ている。
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 歌人また家集と云ふ事歌詠む人を歌人と云う事、拾遺集十七の巻に、三条の太政大臣の家にて、歌人召し集めて、あまたの題詠ませ侍りけるにとあり。また家の集と云うこと、古今集の真字序に見え、拾遺集同じ巻に、天暦の御時、伊勢が家の集召したりければ云々、また二十の巻に、家集に書きて侍ると見え、源の順の集に、平の兼盛が家の集など有り。類聚国史に、菅原の是善の卿の事に、家集十巻とあり、これは詩文の集なり。
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