玉勝間 / 二の巻 古今集月の歌の事
月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雜ノ部に入れり。秋ノ部には唯だ五首入て、そは秋と云ふ事ある歌、又雁を詠み入れたるなどのみなり。
新字:月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雑ノ部に入れり。秋ノ部には唯だ五首入て、そは秋と云ふ事ある歌、又雁を詠み入れたるなどのみなり。
書き下し
月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雑の部に入れり。秋の部にはただ五首入れて、そは秋と云う事ある歌、また雁を詠み入れたるなどのみなり。
現代語訳
月は秋の題とするものであるが、『古今集』では、月の歌は雑の部に入れている。秋の部にはただ五首入れているだけで、それは「秋」という語のある歌や、雁を詠み入れた歌などだけである。
解説
『古今集』の部立てについての短い観察である。後の世では月といえば秋の題とされるが、『古今集』では月の歌の多くは雑の部に入り、秋の部に入るのはわずか五首、しかも歌の中に「秋」の語があるか、雁が詠まれているものに限られる、と宣長は指摘する。つまり古今集の撰者たちにとって、月はまだ秋だけの景物として固まっていなかった。歌の題や季の約束事は、時代とともに作られていったものだということが、この小さな事実からわかる。宣長は歌の学びにおいて、後世の約束事を古歌に押しつけることを嫌った。常識とされている決まりが、いつからそうなったのかを原典で確かめる習慣は、どんな分野の学びにも役立つ。
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