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玉勝間 / 四の巻 また

同じ書に、後嵯峨ノ法皇の、御熊野詣有ける時、伊勢ノ國の夫の中に、本宮の音無川と云ふ所に、梅ノ花のさかりなるを見て、「音なしに咲そめにける梅の花にほはざりせばいかで知らまし、夫が歌には、いみしき秀歌なるべし。此事御下向の時、道にて自然にきこしめして、北面の下らふに仰せて、召されけり。馬にてあちこち打ちめぐりて、本宮にて歌詠みたる夫はいつれぞと問ふに、これこそ件の夫にて候へと、かたはらなる者申シければ、仰せなり、まゐるべしと云へる、返事に、「花ならば折りてぞ人の問ふべきになりさがりたる身こそつらけれ。さて返事にも及ばで、おめおめと馬よりおりて、具して參りぬ。ことの子細きこしめして、御感のあまりに、賞は望みにまかすべしと、仰せ下されけれは、母にて候ものを、養ふほどの御恩こそ、望むところに候へと申シければ、百姓なりけるを、かの所帶公事、一向御免ありて、子孫まで違亂あるまじきよしの、御下シ文をぞ賜はりける。

新字:同じ書に、後嵯峨ノ法皇の、御熊野詣有ける時、伊勢ノ国の夫の中に、本宮の音無川と云ふ所に、梅ノ花のさかりなるを見て、「音なしに咲そめにける梅の花にほはざりせばいかで知らまし、夫が歌には、いみしき秀歌なるべし。此事御下向の時、道にて自然にきこしめして、北面の下らふに仰せて、召されけり。馬にてあちこち打ちめぐりて、本宮にて歌詠みたる夫はいつれぞと問ふに、これこそ件の夫にて候へと、かたはらなる者申シければ、仰せなり、まゐるべしと云へる、返事に、「花ならば折りてぞ人の問ふべきになりさがりたる身こそつらけれ。さて返事にも及ばで、おめおめと馬よりおりて、具して参りぬ。ことの子細きこしめして、御感のあまりに、賞は望みにまかすべしと、仰せ下されけれは、母にて候ものを、養ふほどの御恩こそ、望むところに候へと申シければ、百姓なりけるを、かの所帯公事、一向御免ありて、子孫まで違乱あるまじきよしの、御下シ文をぞ賜はりける。

書き下し

同じ書に、後嵯峨の法皇の、御熊野詣で有りける時、伊勢の国の夫の中に、本宮の音無川と云う所に、梅の花のさかりなるを見て、「音なしに咲きそめにける梅の花におわざりせばいかで知らまし、夫が歌には、いみしき秀歌なるべし。この事御下向の時、道にて自然にきこしめして、北面の下臈に仰せて、召されけり。馬にてあちこち打ちめぐりて、本宮にて歌詠みたる夫はいづれぞと問うに、これこそ件の夫にて候えと、かたわらなる者申しければ、仰せなり、まいるべしと云える、返事に、「花ならば折りてぞ人の問うべきになりさがりたる身こそつらけれ。さて返事にも及ばで、おめおめと馬よりおりて、具して参りぬ。ことの子細きこしめして、御感のあまりに、賞は望みにまかすべしと、仰せ下されければ、母にて候ものを、養うほどの御恩こそ、望むところに候えと申しければ、百姓なりけるを、かの所帯公事、一向御免ありて、子孫まで違乱あるまじきよしの、御下し文をぞ賜わりける。

現代語訳

同じ書に言う。後嵯峨法皇(鎌倉中期の上皇)が熊野に御参詣になった時、伊勢国から出た人夫の中の一人が、本宮の音無川という所で梅の花が盛りなのを見て、「音無川のほとりに音もなく咲き始めた梅の花は、香りを放たなかったなら、どうして咲いたと知ることができただろう」と詠んだ。人夫の歌としては、たいへんな秀歌であろう。この事を、法皇がお帰りの時、道中で自然とお聞きになって、北面の下級の武士に命じてお召しになった。武士は馬であちこち回って、「本宮で歌を詠んだ人夫はどれか」と尋ねると、「これこそその人夫でございます」とそばにいた者が申したので、「御命令である、参上せよ」と言うと、その返事に、「花であったなら、人は折ろうとして(馬から下りて)尋ねてくれもしようが、落ちぶれて成り下がった身こそつらいものだ」と詠んだ。そこで武士は返事もできず、恐縮して馬から下り、人夫を連れて参上した。法皇は事の次第をお聞きになって、感心のあまり、「褒美は望みのままにせよ」と仰せ下されたので、人夫が「母がおりますので、それを養えるほどの御恩こそ望むところでございます」と申したところ、百姓であったので、その所領にかかる年貢や公事をすべて免除され、子孫に至るまで乱されることのない旨の御下文を賜わったのである。

解説

同じ沙石集から、熊野詣での人夫が歌で身を立てた話を抜き書きした一段である。後嵯峨法皇の熊野詣でに駆り出された伊勢の人夫が、音無川のほとりの梅を「音なし」に掛けて詠み、その評判が法皇の耳に届く。召しに来た北面の武士が馬上から呼びつけると、人夫は「花ならば折りてぞ人の問ふべきに」と、「折りて」に「下りて」を響かせて返し、武士は恥じて馬を下りた。褒美を問われて、母を養えるだけでよいと答え、年貢と公事の免除を子孫まで賜った。身分の低い者の歌が、身分の高い者を動かす。宣長が説いたように、歌は技巧の学問である前に心の表れであり、それが人を動かす力を持つことを、この話はよく示している。

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