玉勝間 / 四の巻 撞賢木厳之御魂
或る人、神功紀に、撞賢木嚴之御魂とあるは、いかなる義ぞと問ふに、答へたる。撞は借字にて、齋賢木の意にて、嚴と云はむ料の枕詞なり。嚴は忌清めたる義なれば、忌清めいつく賢木のよしなり、嚴橿と云ふに同じ。さて嚴之御魂とは、天照大御神は、伊邪那岐ノ大神の、檍原の御禊に成出ましまして、清らかなる御魂に坐スよしなり。
新字:或る人、神功紀に、撞賢木厳之御魂とあるは、いかなる義ぞと問ふに、答へたる。撞は借字にて、斎賢木の意にて、厳と云はむ料の枕詞なり。厳は忌清めたる義なれば、忌清めいつく賢木のよしなり、厳橿と云ふに同じ。さて厳之御魂とは、天照大御神は、伊邪那岐ノ大神の、檍原の御禊に成出ましまして、清らかなる御魂に坐スよしなり。
書き下し
ある人、神功紀に、撞賢木厳之御魂とあるは、いかなる義ぞと問うに、答えたる。撞は借字にて、斎賢木の意にて、厳と云わむ料の枕詞なり。厳は忌み清めたる義なれば、忌み清めいつく賢木のよしなり、厳橿と云うに同じ。さて厳之御魂とは、天照大御神は、伊邪那岐の大神の、檍原の御禊に成り出でましまして、清らかなる御魂に坐すよしなり。
現代語訳
ある人が、神功皇后の紀に「撞賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)」とあるのは、どういう意味かと尋ねたので、こう答えた。「撞」は借字であって、「斎(いつ)き賢木」の意であり、「厳(いつ)」と言うための枕詞である。「厳」は忌み清めたという意味なので、忌み清めて斎き祭る賢木という意味であり、「厳橿(いつかし)」と言うのと同じである。さて「厳之御魂」とは、天照大御神が、伊邪那岐大神の檍原(あわきはら)での御禊によって成り出でなさって、清らかな御魂でいらっしゃるという意味である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』四の巻 崇神紀なる小児の神託の詞ある人の、崇神紀六十年云々のところに見えたる、丹波の氷上の人氷香戸辺が小児の、神託の辞の意はいかにと問えるに答えたる。玉萎鎮石、出雲人の祭る、真種の甘美鏡、押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主、山河の水泳る御魂、静め挂けよ甘美御神、底宝御宝主、斯く訓むべし。今の本のごとく訓みては、むげに聞こえぬ事なり。しづかしは、行くをゆかし、佩くをはかしなど云う格にて、しづきを延べたる詞にて、玉藻しづき厳藻、と云う意につづきたる、出雲の序なり。厳は清らかなる意にて、水底にしづく玉藻の、清らかなるよしなり。真種の意は、いまだ考え得ず。おしはぶれとは、鏡をおしふり挙げて祭れと云うことなり。底実は、宝の至極と云うなり、すべて物の至り極まるところを、底と云う。甘美は底宝へ係れり、御神には係らず。御宝主は宝の主人にて、司長のよしなり。これみな鏡を褒めたたえたる詞なり。御魂は御玉にて、山川の底なる玉を云う。しづめかけよは、鎮め掛けて祭れとなり。甘美御神云々は、鏡と同じく、玉をほめたたえたるなり。すべての意は、神宝の至極長なる鏡と玉とを以て、出雲の臣これを祭るべしとなり。
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