玉勝間 / 四の巻 天圧神
或人、書紀の神武ノ御卷に、天皇を天壓神と申せし事あるは、いかなる御稱にかと問けるに、答へけらく。神武天皇は、天ッ神ノ御子と名告して、おびただしき御軍を率て、大和ノ國にのぼり來坐て、その御勢ヒのさかりにして、敵を破り給ふこと、物を壓が如くなりしゆゑに、その頃大和の國人の、いたく恐れて、斯くは申せるなるべし。アメノオシガミと讀べきなり、アメオスノ神と讀めるは惡ろし。壓者飫蒭とあるは、言の居りたる方を以て注せるにて、此例多し。
新字:或人、書紀の神武ノ御巻に、天皇を天圧神と申せし事あるは、いかなる御称にかと問けるに、答へけらく。神武天皇は、天ッ神ノ御子と名告して、おびただしき御軍を率て、大和ノ国にのぼり来坐て、その御勢ヒのさかりにして、敵を破り給ふこと、物を圧が如くなりしゆゑに、その頃大和の国人の、いたく恐れて、斯くは申せるなるべし。アメノオシガミと読べきなり、アメオスノ神と読めるは悪ろし。圧者飫蒭とあるは、言の居りたる方を以て注せるにて、此例多し。
書き下し
ある人、書紀の神武の御巻に、天皇を天圧神と申せし事あるは、いかなる御称にかと問いけるに、答えけらく。神武天皇は、天つ神の御子と名告りして、おびただしき御軍を率いて、大和の国にのぼり来坐して、その御勢いのさかりにして、敵を破り給うこと、物を圧すが如くなりしゆえに、その頃大和の国人の、いたく恐れて、斯くは申せるなるべし。アメノオシガミと読むべきなり、アメオスノ神と読めるは悪ろし。圧者飫蒭とあるは、言の居りたる方を以て注せるにて、この例多し。
現代語訳
ある人が、日本書紀の神武天皇の巻に、天皇を「天圧神」と申し上げた事があるのは、どういう御称号かと尋ねたので、こう答えた。神武天皇は、天つ神の御子と名のって、おびただしい軍勢を率いて大和国に攻め上っておいでになり、その御威勢が盛んで、敵を打ち破られることが、物を押しつぶすかのようであったので、その頃の大和の国の人々がひどく恐れて、このように申したのであろう。「アメノオシガミ」と読むべきであって、「アメオスノカミ」と読むのは良くない。書紀の注に「圧、此をば飫蒭(おす)と云う」とあるのは、その言葉の据わった形(言い切りの形)で注したものであって、こういう例は多い。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 皇孫天孫と申す御号邇邇芸の命より始め奉りて、御代御代の天皇を、皇御孫命とも、天神御子とも申すを、書紀の神代の巻に、皇孫また天孫と書かれたるは、ともに古言にあらず。皇孫とは、皇御孫の命と申す御号を、例の漢文ざまに、つくられたるなり。他の古書どもには皆、皇御孫の命と見えて、続紀の歌に、皇をはぶきて、御孫命とは訓みたる事有れども、命をはぶきて申せる事は見えず。まして天孫と申せることは、古き文には、すべて見えず。天孫とは、天神御子と申すを、つくりかえられたる文字と見えたり。然るを世の人、ひたぶるに漢文ざまのうるわしき方を好むならいと成りては、この皇孫・天孫と申す御号のみひろまりて、かえりて皇御孫の命・天つ神の御子と申す、古のまことのうるわしき御号はかくれたるがごとし。皇孫はすめみま、天孫はあめみまと訓みたれども、文字になずまで、皇孫をば、すめみまのみことと訓み奉るべく、天孫をば、あまつかみのみこと訓み奉りて古のまことの御号を、ひろくせまほしきわざなり。あめみまと云うは、殊に拙なく、よし無き訓なるをや。
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『神皇正統記』巻二 第一代 神武天皇人皇第一代、神日本磐余彦天皇と申。後に神武となづけたてまつる。地神鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神小童第二の女也。伊弉諾尊には六世、大日孁の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所をうつされしかば、其所を名づけて御名とす。此天皇をば橿原の宮と申、是也。又神代より至て尊を尊と云、其次を命と云ふ。人の代となりては天皇とも号したてまつる。臣下にも朝臣・宿禰・臣などと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古には尊とも命とも兼て称けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇御年十五にて太子に立、五十一にて父神にかはりて皇位にはつかしめ給。ことし辛酉なり。筑紫日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄の神達および皇子群臣に勅して、東征のことあり。
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