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玉勝間 / 四の巻 契沖ほうしのすめる庵

契沖ほうしの住めりし、圓珠庵と云ふ庵は、大坂の高津のあたり、ゑさし町と云ふ所にて、今も小寺にてあり。かのほうし此庵にてみまかりて、墓もそこにあり。寛保の頃、五井純禎といへる儒者の書たる碑文もたてり。そもそも此庵は、もと和泉ノ國和泉ノ郡池田ノ郷萬町村の、伏屋ノ某の家地の内、幣垣園と云ふに在て、そこに住たりしを、難波には後に移して住めるなりとぞ。さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみ詠みて、みづから書たりし歌など、おほく持ヲ傳へて、今も殘れるなり。

新字:契沖ほうしの住めりし、円珠庵と云ふ庵は、大坂の高津のあたり、ゑさし町と云ふ所にて、今も小寺にてあり。かのほうし此庵にてみまかりて、墓もそこにあり。寛保の頃、五井純禎といへる儒者の書たる碑文もたてり。そもそも此庵は、もと和泉ノ国和泉ノ郡池田ノ郷万町村の、伏屋ノ某の家地の内、幣垣園と云ふに在て、そこに住たりしを、難波には後に移して住めるなりとぞ。さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみ詠みて、みづから書たりし歌など、おほく持ヲ伝へて、今も残れるなり。

書き下し

契沖ほうしの住めりし、円珠庵と云う庵は、大坂の高津のあたり、えさし町と云う所にて、今も小寺にてあり。かのほうしこの庵にてみまかりて、墓もそこにあり。寛保の頃、五井純禎といえる儒者の書きたる碑文もたてり。そもそもこの庵は、もと和泉の国和泉の郡池田の郷万町村の、伏屋の某の家地の内、幣垣園と云うに在りて、そこに住みたりしを、難波には後に移して住めるなりとぞ。さればかの伏屋氏の家に、かのほうしの、そのかみ詠みて、みづから書きたりし歌など、多く持ち伝えて、今も残れるなり。

現代語訳

契沖法師(江戸前期の歌学者、万葉代匠記の著者)が住んでいた円珠庵という庵は、大坂の高津のあたり、餌差町(えさしまち)という所にあって、今も小さな寺として残っている。あの法師はこの庵で亡くなり、墓もそこにある。寛保の頃に五井純禎(五井蘭洲、大坂の儒者)という儒者が書いた碑文も立っている。そもそもこの庵は、もとは和泉国和泉郡池田郷万町村の、伏屋某の家の敷地の内の、幣垣園という所にあって、法師はそこに住んでいたのだが、後に難波へ移して住んだのだという。だからその伏屋氏の家には、あの法師が当時詠んで自ら書いた歌などを多く持ち伝えていて、今も残っているのである。

解説

宣長が深く敬った先学、契沖の旧跡を書き留めた一段である。契沖は万葉代匠記を著し、古典の仮名遣いを文献から明らかにした僧で、宣長は京都で学んでいた若い頃にその著作に触れ、古学に目を開かれた。ここでは、大坂高津の円珠庵が今も小寺として残り、墓と碑があること、庵はもと和泉の万町村の伏屋氏の屋敷内にあって後に難波へ移したこと、伏屋家には契沖自筆の歌が多く伝わることを記す。遺跡や遺墨の所在を確かめておくのは、学者の足跡を実物で辿ろうとする宣長の態度の表れである。学んだ相手がどこで暮らし何を残したかを知ることは、その学問に近づく道でもある。

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