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玉勝間 / 二の巻 おのが物まなびの有しやう

さて京に在しほどに、百人一首の改觀抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云ひし人の說を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、此人のあらはしたる物、餘材抄、勢語臆斷などを初め、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き惡しきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからず覺えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、唯だ世の人なみに、ここかしこの會などにも出まじらひつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける。そはさるべき理りあり、別に云ひてん。さて後、國にかへりたりしころ、江戶よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて冠辭考と云ふ物を見せたるにぞ、縣居ノ大人の御名をも、始めて知りける。

新字:さて京に在しほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云ひし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、此人のあらはしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、其外もつぎつぎに、もとめ出て見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけぢめをも、やうやうにわきまへさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思へるむねは、大かた心にかなはず、其歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、唯だ世の人なみに、ここかしこの会などにも出まじらひつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなはざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有ける。そはさるべき理りあり、別に云ひてん。さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて冠辞考と云ふ物を見せたるにぞ、県居ノ大人の御名をも、始めて知りける。

書き下し

さて京に在りしほどに、百人一首の改観抄を、人に借りて見て、はじめて契沖と云いし人の説を知り、その世にすぐれたる程をも知りて、この人のあらわしたる物、余材抄、勢語臆断などを初め、その外もつぎつぎに、もとめ出でて見けるほどに、すべて歌まなびの筋の、善き悪しきけじめをも、ようようにわきまえさとりつ。さるままに、今の世の歌よみの思えるむねは、大かた心にかなわず、その歌のさまも、おかしからず覚えけれど、そのかみ同じ心なる友は無かりければ、ただ世の人なみに、ここかしこの会などにも出でまじらいつつ、詠みありきけり。さて人の詠むふりは、おのが心には、かなわざりけれども、おのがたてて詠むふりは、今の世のふりにもそむかねば、人はとがめずぞ有りける。そはさるべき理りあり、別に云いてん。さて後、国にかえりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出でたりとて冠辞考と云う物を見せたるにぞ、縣居の大人の御名をも、始めて知りける。

現代語訳

さて京にいたあいだに、『百人一首改観抄』を人に借りて見て、はじめて契沖という人の説を知り、それが世に優れていることも知って、この人の著した『古今余材抄』『勢語臆断』などをはじめ、そのほかも次々に探し求めて見ているうちに、およそ歌の学びの筋の良し悪しの区別も、しだいにわきまえ悟った。そうなると、今の世の歌詠みの考えている趣旨は、だいたい心にかなわず、その歌の様子も面白くないと思われたが、そのころは同じ心の友がいなかったので、ただ世の人並みに、あちこちの歌会などにも出て交わりながら、詠み歩いていた。さて人の詠みぶりは自分の心にはかなわなかったが、自分が立てて詠む詠みぶりは今の世の詠みぶりにも背かないので、人は咎めなかった。それにはしかるべき理由がある。別に言おう。さてその後、郷里に帰ったころ、江戸から上ってきた人が、近ごろ出たといって『冠辞考』というものを見せてくれたので、縣居の大人(賀茂真淵)の御名をも初めて知ったのである。

解説

自伝の続きで、宣長が契沖と真淵に出会う経緯が語られる。京で『百人一首改観抄』を借りて契沖の説を知り、『古今余材抄』『勢語臆断』などを次々に読んで、歌の学びの良し悪しを見分けられるようになった。前の段で本屋に置いていなかったと語られた『改観抄』が、ここで宣長の目を開いたのである。すると当世の歌人の考えが物足りなくなったが、同じ志の友がいないので、人並みに歌会に出て詠み歩いた。自分の歌は当世風にも背かなかったので咎められなかった、と宣長は言い、その理由は別に語るとする。そして松坂に帰った後、真淵の『冠辞考』に出会う。一冊の本との出会いが人生を変え、その本がまた次の人へと導く。知の系譜が書物を通じてつながっていく様子がよくわかる。

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