玉勝間 / 三の巻 心のおに
物語ぶみなどに、身にあやまちの有る者の、人はさること知らねども、おのが心からおそるるを、心の鬼と云へり。からぶみ列子注に、疑心生闇鬼、と云へる事あり。こころばへよく似たることなり。
書き下し
物語ぶみなどに、身にあやまちの有る者の、人はさること知らねども、おのが心からおそるるを、心の鬼と云えり。からぶみ列子の注に、疑心暗鬼を生ず、と云える事あり。こころばえよく似たることなり。
現代語訳
物語などに、身に過ちのある者が、人はそのことを知らないのに、自分の心から恐れることを「心の鬼」と言っている。中国の書物の列子の注に「疑う心が暗闇に鬼を生む」と言っていることがある。趣がよく似ていることである。
解説
平安の物語に出る「心の鬼」という言葉について、宣長は、やましいところのある者が人に知られていないのに自分の心で恐れることだと説明し、中国の「疑心暗鬼を生ず」とよく似ていると指摘する。「疑心暗鬼」は今では日常の四字熟語だが、宣長の時代には列子の注に見える言葉として知られていた。宣長は漢意を厳しく批判したが、中国の書物を読まなかったわけではなく、むしろ漢籍にも深く通じていた。ここでは和語の表現と漢籍の表現が、別々に同じ心の働きを捉えていることを淡々と示している。人の心の動きは国を越えて通じるところがあり、それを言い当てる言葉がそれぞれの言語に生まれる。「心の鬼」という言い方には、罪の意識が内から人を責めるさまが生々しく表れている。
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 鬼と云ふ物鬼と云うものは、即ち今の世に、女わらべなども云う淤邇にて、古き物語、中むかしの書どもに、多く見えたるさまも、もはら同じ事なり。さて書紀の斉明天皇の御巻に、一本に、宮中に鬼を見ると見え、また、朝倉の山の上に鬼有り云々、など見えたるは、今も云う淤邇なるを、また同じ書の中に、邪鬼、鬼神、姦鬼など有るは、おにと訓めるところも有れど、ただ悪神を云えるなれば、さは訓むべきにあらず。鬼をも、神とは云うべけれど、神を、おにとは云うべからず。さてまた和名抄鬼神部に、人神を鬼と曰う、四声字苑に曰く、鬼は人の死せる神魂なり、和名於邇、或る記に云う、於邇は、隠の音の訛なり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称すと云い、また鬼魅部にも、鬼は和名於爾、或る説に、於爾は隠の字の音の訛なり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に俗に呼びて隠と曰うと云えるは、皆ひがことなり。まず淤邇に鬼の字を書くは、鬼魅の意をとれるなり。魅とは、怪物を云えばなり。また天神、地祇、人鬼とて、人の死にたる神をも、鬼と云う。されどその人鬼は、淤邇にはあたらず。然るにそのわきまえ無く、人鬼のかたをも、ともに淤邇とせるは、字によりて誤れる物なり。すべて字の同じきによりて、名を混え誤れる、このたぐい昔より、物知り人のつねなり。
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『玉勝間』十の巻 鬼と云ふ物また淤邇と云う名を、隠の字の音なりと云えるも、いみじきひがことなり。形をかくすをもて、名とせむには、加久礼などこそは云いもせめ、その隠の字の音をとりて呼ばむ事は、いといと物どおし。さること有るべくもあらず。また陰物なる由にて、陰の字の音なりと云う説も、同じ類いのひがことなり。淤邇と云うは、もとよりの古き名なり。また古えよりして、然か云いし物は、ただ今の世にも云うと、同じ物と心得べし。さかしだちて、文字にかかりて云う説は、なかなかにたがえる事、万づにわたりて、多きぞかし。さてまたおにかみと云うことは、もと漢文の鬼神と云うより出でたることにて、その鬼神は、二字ながら神の事にて、おにには有らざるを、古今集の序などに、おに神と云えるはかの鬼神を、やがて淤爾と神との事にして云えり。また二つを一つにして、淤邇にもあらず、神にもあらで、ただたけく恐ろしき物を、おにかみと云うこと常なり。さてまた俗にキジンと云うは、漢文の鬼神にもあらず、かのオニカミにもあらず。淤邇と云うとも、いささかこころばえかわれり、俗たる諺に、鬼の女房には、きじんがなると云うなどは、まさしく女鬼をキジンとは云えるが如し。世の中の人の言葉は、あやしき物にて、かくさまざまに、とおく移り行くわざなりけり。
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『格言聯璧』惠吉類・邪心は即ち是れ鬼人心一念の邪なれば、而ち鬼其の中に在り。因りて之を欺侮し、之を播弄し、晝は形像に見れ、夜は夢魂に見れ、必ず其の禍を釀して而る後に已む。 故に邪心は即ち是れ鬼なり、鬼と鬼と相應ず、又何ぞ怪しまんや。
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『玉勝間』一の巻 からごころかれが是とする事、実の是にはあらず、非とすること、まことの非にあらざるたぐいも多かれば、善悪是非に二つ無しとも云うべからず。また当然の理とおもいとりたるすじも、漢意の当然の理にこそ有れ、実の当然の理には有らざる事多し。大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意と云う物をさとりぬれば、おのづからいとよく分かるるを、おしなべて世の人の心の地、皆から意なるが故に、それを離れて、さとる事の、いとかたきぞかし。
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『玉勝間』一の巻 からごころ漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみを云うにあらず。大かた世の人の、万の事の善悪是非を論い、物の理を定め云うたぐい、すべてみな漢籍の趣なるを云うなり。さるはからぶみを読みたる人のみ、然るにはあらず。書と云う物一つも見たる事無き者までも、同じ事なり。そもからぶみを読まぬ人は、さる心には有るまじきわざなれども、何わざも漢国を善しとして、彼れをまねぶ世のならい、千年にも余りぬれば、おのづからその意世の中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地と成れる故に、我はから心もたらずと思い、これはから意にあらず、当然の理なりと思う事も、なお漢意をはなれ難きならいぞかし。そもそも人の心は、皇国も外国も、ことなる事無く、善悪是非に二つ無ければ、別に漢意と云う事、有るべくもあらずと思うは、一わたりさることのようなれど、然か思うもやがてから心なれば、とにかくにこの意は、のぞこりがたき物になむ有りける。人の心の、いづれの国もことなる事無きは、本の真心こそ有れ、からぶみに云える趣は、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつわりかざりたる事のみ多ければ、真心にあらず。
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『玉勝間』十二の巻 物しり人もののことわりを論ずるやう世のものしり人、人の身のうえ、世の中のことわりなどを、さまざま心高く、いとかしこげには論えども、とかく云うもかく云うも、皆からぶみの趣きにて、その垣内を出ずる事あたわざるは、いかにぞや。
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