玉勝間 / 十の巻 節刀の事
同記云、寛治八年十一月二日云云。依仰與彼中將、向內侍所、官行事所新作辛櫃一合、(長四尺、黑漆、中朱漆、無鎖匙、以朱綱結之、件辛櫃樣、不慥尋得、但問古老女官等、令作也、)相具、與彼中將、共取出節刀十柄、(此中有靈劍二柄歟)劍樣、切鋒八柄、一柄(長二尺五寸五分、左方府形纔見、打界也、左鋒靈形纔殘、鋒二寸許師刄、柄本五寸四分、目貫之穴二ッ、)一柄、(長二尺二寸、峰有銘文、云、北斗左靑龍右白虎、此上文、損不見也、中央間、有此字許也、後玄、此字以下燒損不見、左龍形、纔從腰下許見、其上鳥尾形、纔在、柄本六寸、穴一ッ在、)以上二柄、若是靈劍歟、殘六柄、(長二尺四寸、但柄本或六寸、或四五寸等相加也、劍并冑不見、)鯰尾二柄、一門、(長二尺四寸、柄本三寸、)一柄、(長二尺、柄本四寸、以上二柄、無銘文、)以上十柄、皆以燒損、一一監臨、納辛櫃、納了後、以朱綱結固之、云云。裏書云、長德三年五月廿四日、藏人信經私記云、遣召主計助安倍晴明、召問宜陽殿御劍等事、申云、件御劔、卅四柄也、去天德內裏燒亡之日、皆悉燒損。晴明爲天文得業生之時、奉宣旨、進勘文、所令作也。卅四柄之中、二腰名靈ハ。一腰破敵、一腰守護、但件劔有鏤、鏤歳次井名、又同鏤十二神、日月五星等之躰也。而燒損之後、不見其文、仍所献勘文也。御劍樣、乃木形也。
新字:同記云、寛治八年十一月二日云云。依仰与彼中将、向内侍所、官行事所新作辛櫃一合、(長四尺、黒漆、中朱漆、無鎖匙、以朱綱結之、件辛櫃様、不慥尋得、但問古老女官等、令作也、)相具、与彼中将、共取出節刀十柄、(此中有霊剣二柄歟)剣様、切鋒八柄、一柄(長二尺五寸五分、左方府形纔見、打界也、左鋒霊形纔残、鋒二寸許師刄、柄本五寸四分、目貫之穴二ッ、)一柄、(長二尺二寸、峰有銘文、云、北斗左青竜右白虎、此上文、損不見也、中央間、有此字許也、後玄、此字以下焼損不見、左竜形、纔従腰下許見、其上鳥尾形、纔在、柄本六寸、穴一ッ在、)以上二柄、若是霊剣歟、残六柄、(長二尺四寸、但柄本或六寸、或四五寸等相加也、剣并冑不見、)鯰尾二柄、一門、(長二尺四寸、柄本三寸、)一柄、(長二尺、柄本四寸、以上二柄、無銘文、)以上十柄、皆以焼損、一一監臨、納辛櫃、納了後、以朱綱結固之、云云。裏書云、長徳三年五月廿四日、蔵人信経私記云、遣召主計助安倍晴明、召問宜陽殿御剣等事、申云、件御剣、卅四柄也、去天徳内裏焼亡之日、皆悉焼損。晴明為天文得業生之時、奉宣旨、進勘文、所令作也。卅四柄之中、二腰名霊ハ。一腰破敵、一腰守護、但件剣有鏤、鏤歳次井名、又同鏤十二神、日月五星等之体也。而焼損之後、不見其文、仍所献勘文也。御剣様、乃木形也。
書き下し
同じ記に云う、寛治八年十一月二日云々。仰せに依りて彼の中将と、内侍所に向い、官の行事所新たに作れる辛櫃一合、(長さ四尺、黒漆、中は朱漆、鎖匙無く、朱の綱を以て之を結ぶ、件の辛櫃の様、慥かに尋ね得ず、但し古老の女官等に問いて、作らしむるなり、)相具し、彼の中将と、共に節刀十柄を取り出す、(この中に霊剣二柄有るか)剣の様、切鋒八柄、一柄(長さ二尺五寸五分、左方に府の形纔かに見ゆ、打界なり、左鋒に霊形纔かに残る、鋒二寸許り師刃、柄本五寸四分、目貫の穴二つ、)一柄、(長さ二尺二寸、峰に銘文有り、云う、北斗左青竜右白虎、この上の文、損じて見えざるなり、中央の間に、この字許り有るなり、後玄、この字以下焼け損じて見えず、左に竜の形、纔かに腰より下許り見ゆ、その上に鳥の尾の形、纔かに在り、柄本六寸、穴一つ在り、)以上二柄、若しくは是れ霊剣か、残り六柄、(長さ二尺四寸、但し柄本或いは六寸、或いは四五寸等相加わるなり、剣井びに冑見えず、)鯰尾二柄、一門、(長さ二尺四寸、柄本三寸、)一柄、(長さ二尺、柄本四寸、以上二柄、銘文無し、)以上十柄、皆以て焼け損ず、一一監臨して、辛櫃に納め、納め了りて後、朱の綱を以て之を結び固む、云々。裏書に云う、長徳三年五月廿四日、蔵人信経の私記に云う、主計助安倍晴明を遣わし召して、宜陽殿の御剣等の事を召し問う、申して云う、件の御剣、卅四柄なり、去る天徳の内裏焼亡の日、皆悉く焼け損ず。晴明天文得業生たりし時、宣旨を奉り、勘文を進りて、作らしむる所なり。卅四柄の中、二腰を霊ハと名づく。一腰は破敵、一腰は守護、但し件の剣に鏤有り、歳次井びに名を鏤め、また同じく十二神、日月五星等の躰を鏤むるなり。而るに焼け損じて後、その文見えず、仍りて勘文を献る所なり。御剣の様、乃ち木形なり。
現代語訳
同じ記(中右記)にいう。「寛治八年十一月二日云々。仰せによって、例の中将とともに内侍所に向かい、官の行事所が新たに作った辛櫃(からびつ)一合を(長さ四尺、外は黒漆、中は朱漆、錠も鍵も無く、朱の綱で結ぶ。この辛櫃の様式は確かには尋ね得なかったが、古老の女官たちに問うて作らせたのである)携え、例の中将とともに節刀十振りを取り出した(この中に霊剣が二振りあるか)。剣の様子は、切っ先のあるもの八振り。一振りは(長さ二尺五寸五分、左側に府の形がわずかに見え、打界である。左の切っ先に霊的な図形がわずかに残る。切っ先の二寸ほどは師刃、柄元五寸四分、目貫の穴が二つ)。一振りは(長さ二尺二寸、峰に銘文がある。いわく『北斗、左青竜、右白虎』。この上の文字は損じて見えない。中央の間にこの字ばかりがある。『後玄』、この字以下は焼け損じて見えない。左に竜の形がわずかに腰から下ばかり見え、その上に鳥の尾の形がわずかにある。柄元六寸、穴一つ)。以上二振りは、もしやこれが霊剣か。残り六振りは(長さ二尺四寸、ただし柄元は六寸のもの、四、五寸のものなどが加わる。剣と冑は見えない)。鯰尾のもの二振り。一振りは(長さ二尺四寸、柄元三寸)、一振りは(長さ二尺、柄元四寸。以上二振りは銘文が無い)。以上十振りはみな焼け損じている。一つ一つ立ち会って辛櫃に納め、納め終わった後、朱の綱で結び固めた」云々。裏書にいう。「長徳三年五月二十四日、蔵人信経の私記にいう。主計助安倍晴明を呼び寄せて、宜陽殿の御剣などのことを尋ねた。申すには、『その御剣は三十四振りである。去る天徳の内裏焼亡の日に、みなことごとく焼け損じた。晴明が天文得業生であった時、宣旨を受けて勘文を進上し、作らせたものである。三十四振りの中の二振りを霊剣と名づける。一振りは破敵、一振りは守護である。ただしその剣には彫刻があって、歳次と名を刻み、また同じく十二神、日月・五星などの形を刻んである。ところが焼け損じた後、その文が見えなくなったので、勘文を献上するのである。御剣の様式は木形のとおりである。』
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 節刀の事件の破敵は是れ大将軍を遣わすの時賜う所の節刀なり。一腰は是れ守護と名づく、御所に候うは是れなり、てえり。天徳以後、度々焼くるの後、未だ件の二腰を作られず、本は是れ百済国の献ずる所と云々。今日遺る所の剣身、六柄の中、霊ハ刀か二腰の実これ有り、之の実有り、件の霊日等、国家の大宝なり、必ず作り儲けらるべし、てえれば、天徳に勅を奉り、備前国の撰び献れる鍛冶、白根安生を以て、その実を焼かしむ、その高雄山なり、てえり。七八月の庚申の日、必ずこの剣を作るべし、てえり。その故に造酒令史安倍宗生等に仰するなり。今年八月廿六日、是れ庚申の日なり。然れども已に九月の節たり、また日次宜しからず。明年七八月の庚申の日、始め作らるべきか。件の記、後日治部卿通俊の許より借り得て、記し置く所なり。これ寛治八年十月廿四日の夜、皇居堀川の院焼けたりしおりの事なり。裏書信経の私記と云うに記せると本書にしるされたると、節刀異なるごとく聞ゆるは、いかなるにか。
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『玉勝間』三の巻 天徳四年内裡焼亡事同記に云う、天徳四年九月廿三日庚申、今夜亥の三剋、内裏焼亡す、火は宣陽門内の方北腋の陣より出づ、中隔の外に出でず、天皇先ず中院に御し、次に朝所に御し、頃くして職の曹司に御す、定めて行う寮警固使、累代の珍宝、多く以て焼失す云云、丑の剋火止む、廿四日云云、又昨夜、鏡二(和名加之古止古呂)並びに大刀契、取り出すこと能わず、今日勅に依りて捜し求めしむ、余燼の上、已に其の実を得たり、但し調度焼損す、其の真は猶存す、形質変わらず、甚だ神異たり、即ち大蔵省の韓櫃に之を納め奉らしむ、十月三日、縫殿大允藤文紀参りて申す、去月廿四日、宣旨に依りて内裏の賢所に御坐す三所を、縫殿寮に遷し奉るの間、内記威所三所を納め奉る、一所の鏡、件の鏡は猛火の上に在りと雖も涌損せず、即ち伊勢御神と云う、二所は真形破損无し、長さ六寸許り、一所の鏡は已に涌乱破損す、紀伊国御神と云う云云、大刀卌八柄の中、四柄は、清涼殿より之を求め出し、卌四柄は、温明殿より之を求め出す、其の中に節刀ハ契七十四枚有り、皆魚形なり、背中より両に別る、各銘有り、併せて全く損せず、長さ各二寸余許り、八枚は金、十四枚は銀、五十枚は銀塗物、又金銀の涌乱一斗余許り有るなり、左近少将源伊渉、将監藤原佐理、右近少将藤原助信、将監源時中、蔵人主殿助藤原為光、出納雀部有方、女官等同じく以て祗候す云云、云云、十一月四日、天皇職の曹司より、冷泉院に遷御す。応和元年十一月廿日、天皇冷泉院より、新造内裏に遷御す、云云。
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『玉勝間』二の巻 内裏焼神鏡焼損事寛弘二年十一月十五日子の刻ばかり云云、内裏焼亡す云云、火は温明殿より起こる、神鏡(所謂恐所)大刀契、啓して取り出だすこと能わず云云、云云十七日云云、神鏡焼損の事を定め申す云云、神鏡・大刀并びに契書焼亡す、鏡は僅かに帯有りて、自余は焼損して円規無く、鏡の形を失う云云、村上御記に云う、天徳四年九月廿四日焼亡云云、廿四日重光朝臣申して云う、温明殿に罷り到りて求むる所、瓦の上に鏡一面在るを見る、(其の鏡径八寸、頭に一疵有りと雖も、専ら損無し)円規并びに帯等、甚だ以て分明なり、縁の破れ瓦の上に露出す、之を見る者驚き威ぜざるは無し云云、廿五日、〓遠・伊陟等合わせ申す、また焼けたる鏡一面を求め得たり云云、故殿の御日記に云う、恐所は火灰燼の中に在りと雖も曾て焼損せず云云、(鏡三面の中、伊勢大神、紀伊国日前国懸云云、件の説の如くんば三面云云、十二月九日、左頭中将来たりて立ちながら云う、今日酉の刻、神鏡太政官より東三条院に移し奉る、其の事に供奉すべし者(てえり)、云云、十日頭中将示し送りて云う、神鏡昨移し奉る、但し旧き御韓櫃を開きて持ち、新しき辛櫃に納め奉る間、忽然として日光の照耀するが如きこと有り、内侍女官等同じく見る、神験猶新たなり、最も是れ恐れ驚くに足る者(てえり)、と同記に見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 神鏡焼損の事百練抄に、寛弘二年十一月十五日、内裏焼亡云云。神鏡灰燼の中に在り、同十七日、神鏡焼損の事、諸卿をしてこれを定め申さしむ。或る記に云う、十二月九日、神鏡を東三条に移し奉る、旧櫃を開く特、新韓櫃に納め奉るの間、忽然として日光の照曜する有り、内侍女官等これを恐れ驚く、同三年七月三日、諸卿御前に於て定め申す、諸道勘申す、神鏡鋳改むべきや否やの事、定むる間、三尺余の蛇、御在所の庇より庭中に落ち、南殿の北階より登り、西に赴きて見えず、神受の兆と謂うべし。また長久元年九月九日、皇居上東門院焼亡云云。内侍所の神鏡、灰燼の中に在りて焼損す。蔵人頭左中将資房、左少将経季等を遣わし、これを求めしむ、僅かに御体を准得し奉る、(焼け残り五六寸許)即ち畏みて折櫃に入れ奉る、又一切を得、(二三寸許)その体焼損し、分明ならずと云云。次次。二三寸許を得、各各段段なり。又金玉の如き物、数粒これを得、随いて又これを彼の櫃に加え入れ奉る。十日、内侍所の女官二人これを夢想す、一人の夢に云う、彼の本所の方に小蛇あり、頗る悩む気有り、一人の夢に云う、彼の本所に人有りて云う、吾相離れ、独身此の所に在りと云云。仍りて女官等彼の所に向かい、鑿ちてこれを求め奉るの処、金玉の如きもの二粒を求め得、即ち入れ奉り畢んぬ。霊験有り、感歎すべしと云云。已上資房卿の記に見ゆ、同十二日、神鏡焼損の事を定め申す、寛弘二年の例に任せて、これを行わるべきの由定め申し了んぬ。
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『玉勝間』十三の巻 鳥羽の勝光明院の宝物の事久安二年八月廿三日庚申、是の日、法皇鳥羽の勝光明院の宝蔵に納むる所の宝物を御覧じ、即ち目録を書かるる事有り、件の目録は、先年白川の御所炎上の時、焼失するなり。顕密の聖〓、古今の典籍、道具書法、弓剣管絃の類、皆是れ往代の重宝なり。と同じ書に見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 貞和四年に西ノ海に沈みし宝劒出来れりと云ふさだの事光明天皇の御世、貞和四年に、元暦のころ、壇の浦に沈みし宝剣、出で来たれりとて、伊勢より進奏せる事あり。これはかの国の円成と云う僧、大神宮へ千日参詣をしけるが、千日に満ちけるおりしも、海上に光物有りて円成これを得て見るに二尺五六寸の剣なり。その時十二三ばかりなる童に、神託ありて、これ海底に沈みし、三種の中の宝剣なりとありければ、祭主神人等、連署の起請をそえて、かの円成これを持ちて上京し、日野の前の大納言資明の卿につきて、これを奉る。さて資明の卿平野の社の神主卜部の宿禰兼員を召して、三種の神器の由来を、委しくたずね、猶も天下の人に信ぜさせむために、兼員をして、三七日祈誓せしめ、この剣まことにかの宝剣なりと云うことを、然るべき人の夢に告げ給いて、人の疑いを去りて、奏聞せんとて、祈請せしむ。その時左兵衛の督直義朝臣の夢に、奇瑞ありしによりて、いよいよ宝剣にまぎれ無しとて、このよし仙洞へ奏聞して、奉り給えり。然るに勧修寺の大納言経顕の卿これを聞きて、宝剣執奏の事、すべて資明が阿党のところより事おこりて候。
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