玉勝間 / 三の巻 諸社遷宮
同記云、諸社遷宮事、伊勢宮廿年一度云云、宇佐宮卅年、(太宰府勤之、)住吉廿年、(使神祇副云云)云云、鹿島香取廿年一度。
書き下し
同記に云う、諸社遷宮の事、伊勢宮は廿年に一度云云、宇佐宮は卅年、(太宰府之を勤む、)住吉は廿年、(使は神祇副云云)云云、鹿島香取は廿年に一度。
現代語訳
同じ『西宮記』に「諸社の遷宮のこと。伊勢の宮は二十年に一度云々。宇佐宮は三十年(大宰府がこれを勤める)。住吉は二十年(使いは神祇官の副云々)云々。鹿島・香取は二十年に一度」とある。
解説
神社の社殿を定期的に建て替えて神を新しい殿舎に遷す式年遷宮について、平安時代の周期を記した記事である。伊勢神宮の二十年に一度の遷宮は今も続いてよく知られるが、宇佐八幡宮が三十年、住吉大社や鹿島・香取の神宮も二十年ごとと定められていた。宇佐の遷宮は大宰府が担当したとある。宣長の時代、伊勢以外の神社の式年遷宮は戦乱などで途絶えたり形が変わったりしていた。宣長がこの短い記事を書き留めたのは、社殿を常に新しく保つことが伊勢だけの特別な制度ではなく、古代の主な神社に広く共通する定めであったことを確かめたかったからだろう。古い制度を現在の姿だけで判断せず、かつての広がりを記録から知ることで、その本来の意味が見えてくる。
関連する章句
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