玉勝間 / 三の巻 神武天皇の御陵
されどなほ綏靖天皇の御は、必ず今云ふ所にはあらじと思はるるを、今それと申すは、いづれの帝の御ならむ。こは猶いぶかしくこそおぼゆれ。さて此英齋と云ふ人は、すべて御世御世の天皇の御陵を始め奉りて、皇后皇子皇女たちなどの御墓まで、廣く考へて、陵墓志と云ふ物をあらはさむとすとて、かつがつ書出たるをも、見せたりしは、己れはた常に深く思ひわたるすぢの事なれば、いといと嬉しくて、必ズ成し終へられよと、かへすがへす勸め置きしは、いかになりぬらむ、そののちは知らずなん。
新字:されどなほ綏靖天皇の御は、必ず今云ふ所にはあらじと思はるるを、今それと申すは、いづれの帝の御ならむ。こは猶いぶかしくこそおぼゆれ。さて此英斎と云ふ人は、すべて御世御世の天皇の御陵を始め奉りて、皇后皇子皇女たちなどの御墓まで、広く考へて、陵墓志と云ふ物をあらはさむとすとて、かつがつ書出たるをも、見せたりしは、己れはた常に深く思ひわたるすぢの事なれば、いといと嬉しくて、必ズ成し終へられよと、かへすがへす勧め置きしは、いかになりぬらむ、そののちは知らずなん。
書き下し
されどなお綏靖天皇の御は、必ず今云う所にはあらじと思わるるを、今それと申すは、いずれの帝の御ならむ。こは猶いぶかしくこそおぼゆれ。さて此英斎と云う人は、すべて御世御世の天皇の御陵を始め奉りて、皇后皇子皇女たちなどの御墓まで、広く考えて、陵墓志と云う物をあらわさむとすとて、かつがつ書き出でたるをも、見せたりしは、己れはた常に深く思いわたるすじの事なれば、いといと嬉しくて、必ず成し終えられよと、かえすがえす勧め置きしは、いかになりぬらむ、そののちは知らずなん。
現代語訳
けれどもやはり、綏靖天皇の御陵は必ずしも今言う所ではないだろうと思われるが、そうすると今それと申しているのは、どの帝の御陵であろうか。これはやはり不審に思われる。さてこの英斎という人は、およそ代々の天皇の御陵をはじめとして、皇后・皇子・皇女たちなどの御墓まで広く考えて、『陵墓志』というものを著そうとしていると言って、ひとまず書き出したものも見せてくれた。私もまた常に深く思い続けている方面のことなので、たいへん嬉しくて、必ず完成させなさいと繰り返し勧めておいたが、どうなったであろうか、その後のことは知らない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 神武天皇の御陵神武天皇の御陵は、今それと申す所は、あらぬ所にて、実は今綏靖天皇の御と申すぞ、神武天皇の御ならむと、おのれ考えて、はやく吉野の道の日記に、しかしるしぬるを、其後此四五年さきに、大和国人に、竹口英斎と云うが語りけるは、今綏靖天皇の御陵と申すは、なお綏靖天皇なるべく、神武天皇の御は、おのれさだかに尋ね出で奉りたり。日本紀にしるされたるに、方もよくあえり。そは畝火山の東北の方の麓につきて、天皇宮という祠のある山なり。そこに字を加志と云う所あり。古事記にしるされたる、かしの尾の上ちょう名の残れるなるべし。山本村なる神八井耳の命の御墓山よりは東、小泉堂村よりは南、大久保村よりは西にて、保良村という里のあたりなり。その近きあたりの田地の字に、神武田またみさんざいなど云う所も有りと云いて、すべて此うねび山につきたる御陵ども、そのあたりいとくわしく考えて、書きたる図をも見せたりき。同じ国の内にて、殊に近きところなれば、しばしば行き見て、考え定めたるなりとぞ語りける。これを聞き見れば、おのがさきのかむがえは、猶あたらず、まことに此人の云える所ぞ、其ならむと思わるる。
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『玉勝間』六の巻 筑紫ノ君石井が事周り六丈は、高さにかなわざれば、六の上に、三十など云う字の有りけむが、落ちたるなるべし。かくてこの石井が造り置きたりし墓のかまえは、今の世にも残りて、現に有るよしにて、近きほど、その図をしるし、考えをも添えたるを、見しに、まことに風土記にしるせるごとくにぞ有りけむ、とぞ覚ゆる。そもそも石のかぎりして、かばかりいかめしく、大きなるかまえを物せん事は、今の世の国持大名などのちからにも、いとたやすくは、出で来がたかるべし。これを思えば、そのかみ国々の国造の身のほども思いはかられて、けしうは有らざりけむかし。かの図は、写しおきたりしを、今え見出でず、見出でたらむ時に、また云いてんとす。
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『玉勝間』三の巻 こし塚大和の国人の云わく、城上の郡外山村に、輿塚と云う有り。うえは円にて、内なる石がまえ、少しあらわれて見ゆる、そのいただきへは、人のぼる事無し。さて南の方へ、さし出でたる尾ありて、御陵のさまなりと云えり。思うに、これもしは饒速日の命の御墓にはあらじか。されど大和の国には、さるさましたる塚、いずこにも多かれば、いかならん、おぼつかなし。外山と云う所は、古えの鳥見なり。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事かくて神の社にまれ、御陵にまれ、歌枕にまれ、何にまれ、遥かなる古えのを、中頃とめ失いたるを、今の世にして、尋ね定めむことは、大かたたやすからぬわざになむ有りける。そのゆえを云わむには、まずこの古き所を尋ぬるわざは、ただに古の書どもを考えたるのみにては、知りがたし。いかに委しく考えたるも、書もて考え定めたる事は、その所にいたりて見聞けば、いたく違う事の多き物なり。よそながらは、定かならぬ所も、その国にては、さすがに書も伝え、語りも伝えて、まがい無き事も有り。さればみずからその地にいたりて、見もし、そこの事よく知れる人に、問い聞きなどもせでは、事たらわず。またただ一たび物して、見聞きたるのみにても、なおたらわず。行きて見聞きて立ちかえりて、またふみどもと考え合わせて、またまたも行きて、よく見聞きたるうえならでは、定めがたかるべし。さてまたそのところの人に逢いて、問い聞くにも、心得べき事くさぐさ有り。古えの事を、あまりたしかに知りがおに語るは、多くは、書のかたはしを、なまなまに考えなどしたるものの、己がさかしらもて、定め云うが多ければ、そはいと頼みがたく、中中の物そこないなり。
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神又玉津島明神は、日前宮なりと云う説も有る、それも摂社なりしことを、さは誤り伝えたるなり。右の事どもを合わせて考うるに、玉津島の神は、疑い無く神功皇后なるべく思わるるなりと云えり。この考えなお事長きを、今ははぶきつづめて出だせり。この秀栄と云いしは、若山の人にて、近き頃みまかりぬとぞ。このふみは、それが甥なる、長原の忠睦と云うが、見せたりしなり。
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