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玉勝間 / 三の巻 斉明紀なる童謡

次に美和陀騰能理歌美とあるを、美歌理能陀和美騰として、御狩のたゆむ間に、鴈の來るなりと解き、また美歌理能美和陀騰ともして、水のみわだの淀む如く、御狩に出給はぬを云ふといへる、二つともにわろし。御狩のなき間の事を、たわみとも、みわだとも、云ふべきにあらず。次に甲子の下なる騰和與騰美を、和騰與騰美とも、また和騰騰與美ともよみて、朕とよどむ、朕ととよむなど解る、さらに聞えぬ事なり。さてまた羽倉(東麻呂)大人は、文字を置きかへて讀めるを、ひが事として、本の次第のままによみて、解れたる說あれど、皆しひごとにて、すべて詞ととのはず、其ことわりも、聞えがたし。其說は秘說とあれば、ここには顯しがたし。そもそもいかに上ッ代の歌と云へども、をりをりこそ聞えぬ詞もまじりたれ、いづれの歌も、すべてはよく聞えて、むげに聞えぬは、一首も無きを、此歌にかぎりて、むげに聞えぬは、はじめに云へる如く、句の前後、文字の次第を、ことさらに書きみだりたる物にて、かの野馬臺の詩とかいふ物の如くなる書キざまなるを、そこに心を附けたる人の無きは、いかにぞや。但しおのが今のかむがへも、必ずこれよしとにはあらず。初メの句のとわとよみなど、猶善き考へも有べきにや。

新字:次に美和陀騰能理歌美とあるを、美歌理能陀和美騰として、御狩のたゆむ間に、鴈の来るなりと解き、また美歌理能美和陀騰ともして、水のみわだの淀む如く、御狩に出給はぬを云ふといへる、二つともにわろし。御狩のなき間の事を、たわみとも、みわだとも、云ふべきにあらず。次に甲子の下なる騰和与騰美を、和騰与騰美とも、また和騰騰与美ともよみて、朕とよどむ、朕ととよむなど解る、さらに聞えぬ事なり。さてまた羽倉(東麻呂)大人は、文字を置きかへて読めるを、ひが事として、本の次第のままによみて、解れたる説あれど、皆しひごとにて、すべて詞ととのはず、其ことわりも、聞えがたし。其説は秘説とあれば、ここには顕しがたし。そもそもいかに上ッ代の歌と云へども、をりをりこそ聞えぬ詞もまじりたれ、いづれの歌も、すべてはよく聞えて、むげに聞えぬは、一首も無きを、此歌にかぎりて、むげに聞えぬは、はじめに云へる如く、句の前後、文字の次第を、ことさらに書きみだりたる物にて、かの野馬台の詩とかいふ物の如くなる書キざまなるを、そこに心を附けたる人の無きは、いかにぞや。但しおのが今のかむがへも、必ずこれよしとにはあらず。初メの句のとわとよみなど、猶善き考へも有べきにや。

書き下し

次に美和陀騰能理歌美とあるを、美歌理能陀和美騰として、御狩のたゆむ間に、雁の来るなりと解き、また美歌理能美和陀騰ともして、水のみわだの淀む如く、御狩に出で給わぬを云うといえる、二つともにわろし。御狩のなき間の事を、たわみとも、みわだとも、云うべきにあらず。次に甲子の下なる騰和与騰美を、和騰与騰美とも、また和騰騰与美ともよみて、朕とよどむ、朕ととよむなど解ける、さらに聞こえぬ事なり。さてまた羽倉(東麻呂)大人は、文字を置きかえて読めるを、ひが事として、本の次第のままによみて、解かれたる説あれど、皆しいごとにて、すべて詞ととのわず、其ことわりも、聞こえがたし。其説は秘説とあれば、ここには顕しがたし。そもそもいかに上つ代の歌と云えども、おりおりこそ聞こえぬ詞もまじりたれ、いずれの歌も、すべてはよく聞こえて、むげに聞こえぬは、一首も無きを、此歌にかぎりて、むげに聞こえぬは、はじめに云える如く、句の前後、文字の次第を、ことさらに書きみだりたる物にて、かの野馬台の詩とかいう物の如くなる書きざまなるを、そこに心を附けたる人の無きは、いかにぞや。但しおのが今のかむがえも、必ずこれよしとにはあらず。初めの句のとわとよみなど、猶善き考えも有るべきにや。

現代語訳

次に「美和陀騰能理歌美」とあるのを「美歌理能陀和美騰」として、「御狩がたゆむ間に雁が来るのだ」と解き、また「美歌理能美和陀騰」ともして、「水の曲がり淵が淀むように、御狩にお出にならないことを言う」とした、二つとも良くない。御狩の無い間のことを「たわみ」とも「みわだ」とも言うはずがない。次に「甲子」の下の「騰和与騰美」を「和騰与騰美」とも、また「和騰騰与美」とも読んで、「朕とよどむ」「朕ととよむ」などと解いているのは、まったく意味が通らない。さてまた羽倉(東麻呂)大人(荷田春満)は、文字を置き換えて読むのを誤りとして、本の順序のままに読んで解かれた説があるが、みな無理な説で、すべて言葉が整わず、その理屈も分かりにくい。その説は秘説とされているので、ここには明かしにくい。そもそも、いかに上代の歌といっても、時には意味の通らない言葉も混じっているが、どの歌もおおむねはよく意味が通って、まったく通じないものは一首も無いのに、この歌に限ってまったく通じないのは、初めに言ったとおり、句の前後や文字の順序をわざと書き乱したものであって、あの「野馬台の詩」とかいうもののような書き方であるのに、そこに気づいた人がいないのはどうしたことか。ただし私の今の考えも、必ずしもこれが正しいというわけではない。初めの句の「とわとよみ」など、なお良い考えもあるのではなかろうか。

解説

童謡解読の締めくくりである。宣長は他の説をさらに退け、国学の先駆者である荷田春満(羽倉東麻呂)の説にも「しいごと」、つまりこじつけだと言い切る。そのうえで、上代の歌でもおおむね意味は通るのに、この歌だけ全く通じないのは、文字をわざと乱して書いたからだ、と自説の根拠を改めて示す。引き合いに出す「野馬台の詩」は、文字を升目に散らして書き、順にたどらなければ読めないように作られたと伝えられる予言詩である。そして最後に、自分の考えも必ず正しいとは言えない、初句などにはもっと良い解があるだろう、と結ぶ。先人に厳しく、自分にも同じ基準を当てる。弟子に「わが説にななづみそ」と言い残した宣長の姿勢がここにも通っている。

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