玉勝間 / 三の巻 大神宮御蔭参り
ある物に、寶永二年、伊勢の大御神ノ宮に、おかげ參りとて、國國の人共、おびただしくまうづる事の有し、その人の數を、つぎつぎしるしたるやう。四月上旬より、京幷ニ五畿内の人、ぬけ參宮といふ事有リ。閏四月上旬よりしるすところ、初めは、一日に二千三千の間なり。十三日より十六日まで、十萬人に超えたり。十七日より、漸漸減じて、又廿四日廿五日は、三四萬人なり。それより大坂へうつり、廿六七日には、五六萬人づつ、廿八九日は、十二三萬人づつ、五月朔日より、七八萬人づつ、三日より、十二三萬人づつ、八日頃より、いよいよ熾なり。十六日には、二十三萬人に及べり、これ前後の最上なり。そののち漸漸減して、同月末には、一萬人ばかりなり。凡ッ閏四月九日より、五月廿九日まで、五十日の間、すべて三百六十二萬人なり、としるせり。又同じ物に、享保三年春のころ、まうでし人の數を、しるしたるやう。正月元日より、四月十五日まで、參宮人凡て四十二萬七千五百人、としるせり。これは世のつねの年なり。
新字:ある物に、宝永二年、伊勢の大御神ノ宮に、おかげ参りとて、国国の人共、おびただしくまうづる事の有し、その人の数を、つぎつぎしるしたるやう。四月上旬より、京幷ニ五畿内の人、ぬけ参宮といふ事有リ。閏四月上旬よりしるすところ、初めは、一日に二千三千の間なり。十三日より十六日まで、十万人に超えたり。十七日より、漸漸減じて、又廿四日廿五日は、三四万人なり。それより大坂へうつり、廿六七日には、五六万人づつ、廿八九日は、十二三万人づつ、五月朔日より、七八万人づつ、三日より、十二三万人づつ、八日頃より、いよいよ熾なり。十六日には、二十三万人に及べり、これ前後の最上なり。そののち漸漸減して、同月末には、一万人ばかりなり。凡ッ閏四月九日より、五月廿九日まで、五十日の間、すべて三百六十二万人なり、としるせり。又同じ物に、享保三年春のころ、まうでし人の数を、しるしたるやう。正月元日より、四月十五日まで、参宮人凡て四十二万七千五百人、としるせり。これは世のつねの年なり。
書き下し
ある物に、宝永二年、伊勢の大御神の宮に、おかげ参りとて、国国の人共、おびただしくもうずる事の有りし、その人の数を、つぎつぎしるしたるよう。四月上旬より、京並びに五畿内の人、ぬけ参宮という事有り。閏四月上旬よりしるすところ、初めは、一日に二千三千の間なり。十三日より十六日まで、十万人に超えたり。十七日より、漸漸減じて、又廿四日廿五日は、三四万人なり。それより大坂へうつり、廿六七日には、五六万人ずつ、廿八九日は、十二三万人ずつ、五月朔日より、七八万人ずつ、三日より、十二三万人ずつ、八日頃より、いよいよ熾なり。十六日には、二十三万人に及べり、これ前後の最上なり。そののち漸漸減じて、同月末には、一万人ばかりなり。凡そ閏四月九日より、五月廿九日まで、五十日の間、すべて三百六十二万人なり、としるせり。又同じ物に、享保三年春のころ、もうでし人の数を、しるしたるよう。正月元日より、四月十五日まで、参宮人凡て四十二万七千五百人、としるせり。これは世のつねの年なり。
現代語訳
ある書物に、宝永二年、伊勢の大御神の宮に「おかげ参り」といって、諸国の人々がおびただしく参詣したことがあり、その人数を順に記した様子。「四月上旬から、京と五畿内の人に抜け参宮ということがあった。閏四月上旬から記したところでは、初めは一日に二、三千人ほどである。十三日から十六日までは十万人を超えた。十七日からしだいに減って、また二十四、二十五日は三、四万人である。それから大坂の人々に移り、二十六、二十七日には五、六万人ずつ、二十八、二十九日は十二、三万人ずつ、五月一日から七、八万人ずつ、三日から十二、三万人ずつ、八日ごろからいよいよ盛んになった。十六日には二十三万人に及び、これが前後を通じて最も多かった。その後しだいに減って、同月末には一万人ほどである。およそ閏四月九日から五月二十九日まで、五十日の間に合わせて三百六十二万人である」と記している。また同じ書物に、享保三年の春ごろに参詣した人数を記した様子。「正月一日から四月十五日まで、参宮人は合わせて四十二万七千五百人」と記している。これは普通の年である。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 大神宮に諸人のまうづる事同じ書に、承平四年九月の御祭云云、参宮人千万、貴賤を論ぜず云云、と有るを見れば、その頃もかかりしなり。そもそも大神宮には、私の幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣ずる事は、なべて苦しからざりしにや。
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『玉勝間』八の巻 伊勢勅使のとも人の数同じ書に、仁安三年十二月二十一日、伊勢大神宮炎上によりて、同じ月勅使、左大弁雅頼卿発遣、その人数は、勅使大弁子息一人、従十一人、前駈六人(従各五人)、侍五人(従各十人)、雑色六人(従各二人)、舎人四人、人夫三十人、右大史三善章貞、従二十人、史生盛久、同兼康、従各二十人、馬各五疋、官掌頼兼(同前)、弁侍二人、従各五人、馬各二疋、使部十人、従各一人と見えたり。
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『玉勝間』十三の巻 遠江国より大神宮に神御衣を織て奉る事遠江国人、内山真龍が云えるは、かの国の浜名の郡神戸の〓岡本村と云うに。機殿有りて、年毎に、四月と九月と、神御衣を織りて、伊勢の内宮に奉る。そのはた殿は、かの村に、神氏目大夫と云う者、世世相伝えて、年ごとに新しく造る、萱葺の屋なり。神庫もあり。ふるめきたる造りざまなり。神御衣は、年ごとに、三河の国の大野村と云うより、生糸を、この岡本村におくり奉るを、件の機殿にて織りて奉る。和たえなり、と云いき。
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『玉勝間』四の巻 大神宮の外宮百錬抄に云う、長久元年七月二十六日、大風、伊勢豊受大神宮、正殿ならびに東西宝殿・瑞垣、悉く以て顛倒す、同じく八月四日、諸卿定め申す、大神宮外宮顛倒の事、主上殊に歎息す云々、と有り。大神宮外宮と申せる事、めずらし。長久は、後朱雀天皇の御世なり。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢国伊勢の国は、かた国のうまし国と古語にも云いて、北のはてより南のはてまで、西の方は山々つらなり続きて、まことに青垣を成せり。東の方は入海にて伊勢の海と云うこれなり。かくていずこもいずこも山と海との間、ひろく平原にして、北は桑名より、南は山田まで、二十里あまりがほど、山と云う物一つも越ゆる事無くひたつづきの国原なり。その間に、広き里々おおかる中に、山田、安濃津、松阪、桑名など、殊ににぎわわしく大きなる里なり。大かた京より江戸まで、七国八国を経てゆく間に、かばかりの大里は、近江の大津と、駿河の府をおきては有る事無し。外の国々も思いやらる。なお件の里々につぎて、四日市、白子などよき邑なり。かくてこの国、海の物、山野の物、すべて乏しからず。暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚だしからず。但し寒さは、北の方へ寄るままに次第に寒し。風はよく吹く国なり。国のにぎわわしき事は、大御神の宮にもうずる旅人たゆる事無く、殊に春夏のほどは、いといとにぎわわしき事、大かた天の下にならび無し。土こえて、稲いとよし。たなつ物も畑つ物も、大かた皆よし。
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『玉勝間』三の巻 諸社遷宮同記に云う、諸社遷宮の事、伊勢宮は廿年に一度云云、宇佐宮は卅年、(太宰府之を勤む、)住吉は廿年、(使は神祇副云云)云云、鹿島香取は廿年に一度。
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