玉勝間 / 一の巻 順徳天皇の御事
同記云、同年十月六日、早旦或者來告云、佐渡院去月十二日崩逝云、去夜飛脚到來、八日、遠所御使、今日到着云、十三日有御喪禮事云、十日云云、彼御腦、太非大事云、只都不聞食供御涉數日、九月九日、可終御命之由、兼有御祈請云、人不知之、追案得其事云、而件日猶不叶、及十二日也、御歸京事、思食絕之故云、就之存命太無益之由、有叡慮云、燒燒石、偸令宛御蚊觸之上給、人不知之歟、二箇日如此之間、小物御增、次第御身躰〓弱令成給、兩左衞門大夫康光盛實、御臨終已前、出家着法衣、祇候御前、相互令唱高聲念佛給、如眠御氣絕云女房右衞門督別當局已下、八人出家、十三日御喪禮、兼皆被仰置云、十一月一日、今日佐渡院御中陰已滿、四十九日也、於遠所無御佛事、京都又同前、御骨入洛之後、可被行云、是御遺誠也、然而非可待其事、懇志之餘、自去月廿二日始、修萬萬遍念佛、(家中輩結番、其外勸化人、晝夜修之、其人數已多、然而猶不滿彼數(仍猶到百日可修也、)雖未滿數今日且可結願、又可奉供養佛經、御佛。圖繪阿彌陀如來像也、(裏押宸筆件宸筆、當初御在位之時、)經妙華經一部、摺寫之、件料紙、遠所之後、女房奉書已下、取具漉反古、色紙用之、云云此上紺紙金字阿彌陀經一卷、別供養之、件ノ經料紙、又宸筆也、猶爲奉見其字、淺色染之、以字方爲裏、去八月最後御音信、續奧枚、日來手自書寫之也。
新字:同記云、同年十月六日、早旦或者来告云、佐渡院去月十二日崩逝云、去夜飛脚到来、八日、遠所御使、今日到着云、十三日有御喪礼事云、十日云云、彼御脳、太非大事云、只都不聞食供御渉数日、九月九日、可終御命之由、兼有御祈請云、人不知之、追案得其事云、而件日猶不叶、及十二日也、御帰京事、思食絶之故云、就之存命太無益之由、有叡慮云、焼焼石、偸令宛御蚊触之上給、人不知之歟、二箇日如此之間、小物御增、次第御身体〓弱令成給、両左衛門大夫康光盛実、御臨終已前、出家着法衣、祇候御前、相互令唱高声念仏給、如眠御気絶云女房右衛門督別当局已下、八人出家、十三日御喪礼、兼皆被仰置云、十一月一日、今日佐渡院御中陰已満、四十九日也、於遠所無御仏事、京都又同前、御骨入洛之後、可被行云、是御遺誠也、然而非可待其事、懇志之余、自去月廿二日始、修万万遍念仏、(家中輩結番、其外勧化人、昼夜修之、其人数已多、然而猶不満彼数(仍猶到百日可修也、)雖未満数今日且可結願、又可奉供養仏経、御仏。図絵阿弥陀如来像也、(裏押宸筆件宸筆、当初御在位之時、)経妙華経一部、摺写之、件料紙、遠所之後、女房奉書已下、取具漉反古、色紙用之、云云此上紺紙金字阿弥陀経一巻、別供養之、件ノ経料紙、又宸筆也、猶為奉見其字、浅色染之、以字方為裏、去八月最後御音信、続奥枚、日来手自書写之也。
書き下し
同記に云う、同年十月六日、早旦或る者来たり告げて云う、佐渡院去月十二日崩逝すと云う、去夜飛脚到来す、八日、遠所の御使、今日到着すと云う、十三日御喪礼の事有りと云う、十日云々、彼の御悩、太だ大事に非ずと云う、只都て供御を聞こしめさず数日を渉り、九月九日、御命を終うべきの由、兼ねて御祈請有りと云う、人之を知らず、追って其の事を案じ得と云う、而るに件の日なお叶わず、十二日に及ぶなり、御帰京の事、思し食し絶ゆるの故と云う、之に就きて存命太だ益無きの由、叡慮有りと云う、焼石を焼きて、偸かに御蚊触に宛てしめ給うの上、人之を知らざるか、二箇日此の如きの間、小物御増し、次第に御身躰〓弱ならしめ給う、両左衛門大夫康光・盛実、御臨終已前、出家して法衣を着し、御前に祇候し、相互に高声念仏を唱えしめ給い、眠るが如く御気絶ゆと云う、女房右衛門督・別当局已下、八人出家す、十三日御喪礼、兼ねて皆仰せ置かると云う、十一月一日、今日佐渡院の御中陰已に満つ、四十九日なり、遠所に於いて御仏事無し、京都また前に同じ、御骨入洛の後、行わるべしと云う、是れ御遺誡なり、然れども其の事を待つべきに非ず、懇志の余り、去月廿二日より始めて、万万遍の念仏を修す、(家中の輩結番し、其の外勧化の人、昼夜之を修す、其の人数已に多し、然れどもなお彼の数に満たず(仍てなお百日に到るまで修すべきなり、)未だ数に満たずと雖も今日且つ結願すべし、また仏経を供養し奉るべし、御仏、阿弥陀如来の像を図絵するなり、(裏に宸筆を押す、件の宸筆は、当初御在位の時の、)経は妙華経一部、之を摺写す、件の料紙は、遠所の後、女房の奉書已下、取り具して反古を漉き、色紙に之を用う、云々。此の上紺紙金字の阿弥陀経一巻、別に之を供養す、件の経の料紙、また宸筆なり、なお其の字を見奉らんが為に、浅く色に之を染め、字方を以て裏と為す、去る八月最後の御音信、奥に続く枚、日来手自ら之を書写するなり。
現代語訳
同じ日記にこうある。「同年十月六日。早朝、ある者が来て告げるには、佐渡院(順徳院)が先月十二日に崩御されたという。昨夜飛脚が着いたという。八日。遠い配所からの御使いが今日到着したという。十三日に御葬礼があったという。十日。院のご病気は、それほど重いものではなかったという。ただまったくお食事を召し上がらずに数日を過ごされ、九月九日に命を終えようと、かねてお祈りになっていたという。人はこれを知らず、後になってそのことを察したという。ところがその日にはなお果たされず、十二日に及んだのである。都へお帰りになることを思い絶たれたためだという。それについて、生きながらえても何の益もないとお考えになったという。石を焼いて、ひそかに御蚊触(患部)に当てられたが、人はこれを知らなかったのか。二日ほどそうされる間に、腫れ物が増し、次第にお体が衰弱していかれた。左衛門大夫康光・盛実の二人は、ご臨終の前に出家して法衣を着て御前に控え、互いに声高く念仏を唱えられ、院は眠るように息を引き取られたという。女房の右衛門督・別当局以下、八人が出家した。十三日の御葬礼は、かねてみな言い置かれていたという。十一月一日。今日で佐渡院の御中陰が満ちた。四十九日である。配所では御仏事はなく、京都でもまた同じである。御遺骨が京に入ってから行うようにとのことで、これはご遺言である。しかしそれを待っているべきではない。心からの思いのあまり、先月二十二日から始めて万万遍の念仏を修した(家中の者が当番を組み、そのほか勧めに応じた人々が昼夜これを修した。その人数はすでに多いが、なおその数に満たない。そこでなお百日に至るまで修するつもりである)。まだ数に満たないけれども、今日ひとまず結願とし、また仏と経を供養し申し上げる。仏は阿弥陀如来の像を描いたもので(裏に宸筆を押した。その宸筆は、かつてご在位の時のものである)、経は法華経(妙華経)一部を摺写した。その料紙は、配所に移られた後の女房奉書以下を取りそろえて反古を漉き返し、色紙にして用いた。この上に紺紙金字の阿弥陀経一巻を別に供養した。その経の料紙もまた宸筆(院のお手紙)である。なおその字を拝見するために、浅く色を染め、字のある面を裏にした。去る八月の最後のお便りで、奥に続く紙で、日ごろ御自ら書写されたものである。」
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 平戸記平戸記にいわく、仁治三年正月十六日云々、凡そ空位数日に及ぶ、偏に是れ関東の所為なり、十七日云々、阿波院の宮、武士の縁に依りて、一定御出立の由、世以て風聞す、前内府(定通公)の妻、使縁者、泰時・重時等の姉妹なり、此の如きの間、私に使者を関東に差し遣わし、慇懃の旨有りと云う、十九日云々、巷説に云う、関東の飛脚、此の申の剋許りに武家に著くと云う、此の由を以て且つ一条殿に申すと云う、是に依りて京中物念と云う、抑も此の事、関東計らい申すの条、末世の至りと知ると雖も、極めて悲しむべし悲しむべし、十善の帝位の運、更に凡夫愚賤の思う所に非ず、而るに時儀に順わしめ給うに依るか、一旦仰せ合わせらると雖も、〓凡卑の下愚を以て、帝位を計り立つるの条、未曾有の事なり、我が朝は神国なり、異域の風に似ず、茲の天地開くより後、国常立尊以降、皆先主計り立てしめ給う、不慮の事に至りては、此の限りに非ず、光仁・光孝二代に至りては、群臣議定するか、然れども其の趣、偏に天下を安んぜんが為なり、今群議に非ず、異域蛮類の身を以て此の事を計り申すの条、宗廟の冥慮如何、尤も恐るべし恐るべし。またいわく、寛元三年二月十日云々、神事興行の事、祈年・祈年穀・月次祭已下、諸社の祭礼等、皆起行の儀有るべくば、先ず幣物・〓物・庭積等、今に於いては実無きなり、皆悉く尋ね沙汰有るべし、而るに件の事等、末代に臨みて治め難きか、式数を守るべくば、その物今
-
『神皇正統記』巻五 第八十四代 順徳院第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女也。庚午の年即位、辛未に改元。此御時征夷大将軍頼朝の次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。其弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おましましき。
-
『玉勝間』一の巻 後鳥羽天皇御諡のさだ同記に云う、同年六月廿六日云々、今日殿下の御物語に云う、顕徳院の諡号、改めらるべし、後鳥羽と号し奉るべしと云う、此の事、前内府申し行うか、此の事を案ずるに、我が朝に例無きか、漢朝には一両度相存するの由、大府卿之を申す、また御改名の儀、太だ其の心を得ず、何故ぞと云えば、冥慮に叶わずといわば、また如何。
-
『玉勝間』十三の巻 九条廃帝九条の廃帝と申し奉るは、順徳天皇の第一の皇子にて、御母は中宮藤原の立子、東一条の院と申し、後京極の摂政良経公の御女なり。帝建保六年十月十日に降誕、御諱は懐成と申す。同年十一月廿一日に、親王宣下、廿六日に、皇太子に立ち給い、承久三年四月廿日に、御年四つにて受禅有り、然るところに、東の賊北条義時、いたく荒びて、ゆゆしき世の乱れおこりて、かの族泰時時房など云う賊ども、おしのぼり、同じき六月に、京にみだれ入って、いともかしこく、三所の天皇たちを、遠所に遷し奉り、この新帝をも、おしおろし奉りぬるは、あさましなども世の常の事をこそ云え、云わむかたも無き、逆事のまがことにぞ有りける。かくてこの帝はその七月九日に、位を譲らせ給いて、ひそかにて九条院に渡御有り。それよりこの院に、御母女院と御同居ましまして、文暦元年五月廿日に崩御、御年十七にぞおわしましける。いまだ御元服の儀もおわしまさざりき。受禅有りしかども、わずかに四月が程に、おりさせ給いて、いまだ即位の儀も行われざりしかば、皇代の御数にも、いらせ給わざるなり。いずれの地にか葬り奉りけむ、御陵の在る処も聞こえぬは、いともかしこき御事になむ。
-
『神皇正統記』巻五 第七十五代 崇徳院第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讃岐国にうつされ給。四十六歳おましましき。
-
『玉勝間』一の巻 服ぬぎの次第同記に云う、仁治三年二月廿六日、今夜左大臣殿、四条院の御服を除かしめ給うと云々、川原に於いて除かしめ給うべきの処、御蚊触の事出で来たり、御減有りと雖も、忽ち御河原の条、如何の由、医師計り申すの間、只門外に出ずるなり、吉服の御直衣を召し、御車に駕し、門外に出で、吉方に向かいて、除かしめ給うなり、政所先日の御帯を献ず、是より先に吉服の御装束を召し、御車に駕せしめ給う、其の後御帯を献ず、(伝え乱るるの人之を聞かず、尋ぬべし、)之を召し一結にて之を給う、(或る説、除服の時、また之を召さずと云う、吉方を忌むか、体尋ぬべし、)鈍色の御直衣一襲、陰陽師の前に置く、御車吉方に向け、榻を立て、次に禊を修す、次に家司兼〓朝臣〓〓大麻を伝え、便ち御贖物を撤し、陰陽師御帯を切り、河原に遣わして流し棄つるなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る