玉勝間 / 二の巻 六条摂政基実公の棺の事
同記云、仁安元年九月廿三日云云、棺料板四枚、賜直物令交易、仰左近令造始、寸法、長六尺、弘二尺、髙一尺六寸、敷物練絹長六尺、三幅五卷、野草衣、同絹長八尺四幅兩卷、(可書(眞言梵字)格生絹八尺四幅、黃幡料白生絹一丈、こは六條ノ攝政基實ノおとどの御料なり。
新字:同記云、仁安元年九月廿三日云云、棺料板四枚、賜直物令交易、仰左近令造始、寸法、長六尺、弘二尺、高一尺六寸、敷物練絹長六尺、三幅五巻、野草衣、同絹長八尺四幅両巻、(可書(真言梵字)格生絹八尺四幅、黄幡料白生絹一丈、こは六条ノ摂政基実ノおとどの御料なり。
書き下し
同記に云う、仁安元年九月廿三日云云、棺の料の板四枚、直物を賜いて交易せしめ、左近に仰せて造り始めしむ、寸法、長さ六尺、弘さ二尺、高さ一尺六寸、敷物は練絹長さ六尺、三幅五巻、野草衣、同じ絹長さ八尺四幅両巻、(真言梵字を書くべし、格は生絹八尺四幅、黄幡の料白生絹一丈、こは六条の摂政基実のおとどの御料なり。
現代語訳
同じ日記にこうある。「仁安元年(1166)九月二十三日、棺の材料の板四枚は、代価を与えて買い入れさせ、左近の者に命じて造り始めさせた。寸法は、長さ六尺、幅二尺、高さ一尺六寸。敷物は練り絹で長さ六尺、三幅のものを五巻。野草衣は同じ絹で長さ八尺、四幅のものを二巻(真言の梵字を書くべし)。格(棺の覆い)は生絹八尺で四幅。黄幡の材料は白い生絹一丈」。これは六条摂政藤原基実の大臣のためのものである。
解説
摂政藤原基実が若くして亡くなったときの棺の仕様を、『兵範記』から写した短い段である。板の入手、棺の寸法、敷物や野草衣の絹の長さと幅、梵字を書くこと、幡の布まで、葬送の用意が数字で記される。筆者の平信範は摂関家に仕えた家司で、主家の葬儀の実務を担った立場からこうした細目を残した。宣長は何の評も加えず、最後に誰の棺かを注するだけである。平安貴族の葬送の実際を伝える記録は多くない。儀礼や装束の考証には、こうした寸法や材料の記録が決め手になる。野草衣に真言の梵字を書くとあるのは、当時の葬送が仏式で行われていたことを示す。宣長の好みとは別に、事実は事実として写し取っているところに、考証家の公平さがある。
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 久安五年忠通公任太政大臣宣命兵範記にいわく、久安五年十月廿五日云云、今日太政大臣に任ず云云、節会例の如し、右大臣内弁と為り、左宰相中将経宗朝臣宣命使と為る、其の文に云う、天皇が詔旨らまと勅りたまう御命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下の民衆聞こし食えよと宣る、摂政従一位藤原朝臣は、宗門相継ぎて、国の賢佐なり、忠貞の心を持ちて、先々の御世を守り、天下の政を相あないたすけ奉る事も久し、茲に因りて太上天皇が伝国の詔命に、摂政の職に治め賜える事在りしかば、朕が践祚の始めの、万機を行う者、功績古たり、しかのみならず纖縦に在る時より、輔導保護仕え奉ること年久し、君臣の道存すと雖も、孫祖の義尤も厚し、頃年も、旧例のままに早く太政大臣の官に上げ賜わむと、念おし御座しを、謙損の心増して深くして、先朝の御宇に、件の官を辞退せり、而るに思う所有りて、太政大臣の官に上げ給い治め賜うと勅りたまう、但し摂政の職は、今もいよいよ益々勤め仕え奉れと勅りたまう御命を、衆聞こし食えと宣る、久安五年十月廿五日、作者大内記長光
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『玉勝間』二の巻 行成記書写の事同記に云う、久安五年十一月廿六日、召しに依りて早く鳥羽殿に参る、法皇北殿に御す、権弁以下執筆の輩十余人、同じく召しに応じて参候するなり、権大納言行成の記、正暦以後五十余巻、御所の近辺に於て之を書写せらる、時時御簾の中に出〓して、叡覧を経、終日書写す、或いは晩頭に退出す、下官本新共に御所に返上して退出し了んぬ、廿七日、早旦鳥羽殿に参る云云、今日下官十五枚書き了んぬ、返上す、晩頭に帰京す、廿八日、早朝鳥羽殿に参る、書写の功昨日の如し云云。
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