玉勝間 / 三の巻 立花茶の湯
同記云、大永五年三月六日、午後參靑蓮院門跡、少納言令同道、今日花御會也。池坊(六角堂ノ修行也、花之上手也)祇候、十瓶餘有之。また同六年七月廿二日、午時參靑蓮院、万里小路、阿野少將、髙倉少納言、等同道。於池中島、有御茶、種種儀尤有興。當時數奇宗珠祗候。下京地下入道也。數奇之上手也。
新字:同記云、大永五年三月六日、午後参青蓮院門跡、少納言令同道、今日花御会也。池坊(六角堂ノ修行也、花之上手也)祇候、十瓶余有之。また同六年七月廿二日、午時参青蓮院、万里小路、阿野少将、高倉少納言、等同道。於池中島、有御茶、種種儀尤有興。当時数奇宗珠祗候。下京地下入道也。数奇之上手也。
書き下し
同記に云う、大永五年三月六日、午後青蓮院門跡に参る、少納言同道せしむ、今日花の御会なり。池坊(六角堂の修行なり、花の上手なり)祗候す、十瓶余これ有り。また同六年七月廿二日、午の時青蓮院に参る、万里小路、阿野少将、高倉少納言、等同道す。池中の島に於いて、御茶有り、種種の儀尤も興有り。当時の数奇宗珠祗候す。下京の地下入道なり。数奇の上手なり。
現代語訳
同じ『二水記』に「大永五年三月六日、午後に青蓮院門跡に参上した。少納言を同道させた。今日は花の御会である。池坊(六角堂の執行で、花の名手である)が伺候し、十瓶余りが立てられた」とある。また「同六年七月二十二日、午の刻に青蓮院に参上した。万里小路、阿野少将、高倉少納言らが同道した。池の中の島で御茶の会があり、さまざまな趣向がたいへん面白かった。当代の数寄者である宗珠が伺候した。下京に住む地下(官位のない)の入道である。数寄の名手である」とある。
解説
関連する章句
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『茶の本』第六章 花・花道の起こり花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人珠光はその門人であった。また絵画における狩野家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元専能も、この人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らは、新たな配合を作ろうとして互いに相競った。
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『玉勝間』十一の巻 茶の事同じ書、御仏名の条の裏書にいわく。法親王に禄を賜う、紅染の細長一襲(御衣、)桜色の綾の細長一襲、茶并びに茶具二裹、(五葉の枝に付く)とあり。そのかみ早く茶をめで給いしにこそ。但し仏事につきての事にや。茶具と有るは、いかなる物なりけん。そもそもこの茶と云う物のこと、はやく桓武天皇の御世に、国史に見えたりと覚ゆるを、定かにその年と云う事おぼえねば、ここにえ引き出でず。
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『玉勝間』三の巻 片衣小袴と云ふ物二水記に云う、大永七年正月七日、早旦室町殿に出仕す、見物せしむ、道永以下悉く以て片衣小袴なり、当時先ず無為の間、然るべからざるの体なり、云云、武田出仕の体これに同じ、とあり。片衣小袴と云うこと、此外にもところどころ見えたり。今の世の肩衣半袴の事と聞こゆ。
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『茶の本』第六章 花・形式派と写実派花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪や常信の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には、浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
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『玉勝間』一の巻 歌の御会のめぐらし文甘露寺権大納言元長卿記に云う、永正五年正月十四日、和哥御会の廻文を書き、釜殿を以て之を遣わす、鷺に慶音有り、右の御題、来る十九日披講有るべし、予参せしめ給うべき由、仰せ下され候なり、正月十四日、元長、中御門大納言殿、(この所同じつらに廿三人の名あり)袖書に尅限は午の一点たるべきなり、丞相には別紙の折紙を以て之を相触る。
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『玉勝間』十二の巻 茶の事類聚国史に、弘仁六年夏四月癸亥、近江の国滋賀の韓崎に幸す、便ち崇福寺に過ぎる、大僧都永忠・護命法師等、衆僧を率いて、門外に奉迎す、皇帝輿を降り、堂に升りて仏を礼す、更に梵釈寺に過ぎり、輿を停めて詩を賦す、皇太弟及び群臣、和し奉る者衆し、大僧都永忠手自ら茶を煎じて御に奉る、御被を施す、即ち御船湖に泛ぶ、国司風俗歌舞を奏す、五位以上并びに掾以下に、衣被を賜う、史生以下郡司以上に、綿を賜うこと差有り、また同じ年六月壬寅、畿内并びに近江・丹波・播磨等の国をして、茶を殖えて毎年これを献ぜしむ、とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり。
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