茶の本 / 第六章 花・花道の起こり
花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人珠光はその門人であった。また絵画における狩野家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元専能もこの人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。
書き下し
花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。足利義政時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。茶人珠光はその門人であった。また絵画における狩野家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元専能も、この人の門人であった。十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らは、新たな配合を作ろうとして互いに相競った。
現代語訳
花道が生まれたのは十五世紀で、茶の湯が起こったのと同時のように思われます。わが国の伝説によると、初めて花を生けたのは昔の仏教徒だと言います。彼らは生き物に対する限りない心づかいのあまり、暴風に散らされた花を集めて水桶に入れたということです。足利義政時代の大画家であり鑑定家である相阿弥は、初期の花道の大家の一人だと言われています。茶人の珠光はその門人でした。また絵画における狩野家のように、花道の記録で有名な池坊の家元である専能も、この人の門人でした。十六世紀の後半に、利休によって茶道が完成されるとともに、生け花も十分な発達を遂げました。利休およびその流れを汲んだ有名な織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らは、新しい配合を作ろうと互いに競い合いました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『茶の本』第六章 花・形式派と写実派花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶が課する法則のほかには全く法則がなくなった。新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。池の坊を家元とする形式派は、狩野派に相当する古典的理想主義をねらっていた。初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪や常信の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。ゆえにこの派の作には、浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。
-
『茶の本』第六章 花・純潔と清楚に身をささげる花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところは、ただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげる事によって、その罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。
-
『茶の本』第六章 花・利休の朝顔花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると、太閤はそれを見たいと仰せいだされた。そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。しかしそこには、みごとなものが待っていて、彼のきげんは全くなおって来た。床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
-
『茶の本』第六章 花・花は王位についた皇子のように茶の宗匠が花を満足に生けると、彼はそれを日本間の上座にあたる床の間に置く。その効果を妨げるような物はいっさいその近くにはおかない。たとえば一幅の絵でも、その配合に何か特殊の審美的理由がなければならぬ。花はそこに王位についた皇子のようにすわっている。そして客やお弟子たちは、その室に入るやまずこれに丁寧なおじぎをしてから、始めて主人に挨拶をする。生花の傑作を写した絵が素人のために出版せられている。この事に関する文献はかなり大部なものである。花が色あせると宗匠はねんごろにそれを川に流し、または丁寧に地中に埋める。その霊を弔って墓碑を建てる事さえもある。
-
『茶の本』第六章 花・絵画彫刻との協奏曲花の独奏はおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲となれば、その取りあわせには人を恍惚とさせるものがある。石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥の描いた鴨の空を飛ぶ絵をかけた。紹巴という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。その客人の一人は、その全配合のなかに晩秋の微風を感じたとしるしている。
-
『茶の本』第六章 花・植木鉢をいじる人草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。植木鉢をいじる人は花鋏の人よりもはるかに人情がある。彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好とその愛好する花卉は、しばしば物語や歌にしるされている。唐宋の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく、宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎の毛で作ったやわらかい刷毛でその葉を洗うのであった。