玉勝間 / 三の巻 片衣小袴と云ふ物
二水記云、大永七年正月七日、早旦室町殿出仕、令見物、道永以下悉以片衣小袴也、當時先無爲之間、不可然之體也、云云、武田出仕之體同之とあり。片衣小袴と云ふこと、此外にもところどころ見えたり。今の世の肩衣半袴の事と聞ゆ。
新字:二水記云、大永七年正月七日、早旦室町殿出仕、令見物、道永以下悉以片衣小袴也、当時先無為之間、不可然之体也、云云、武田出仕之体同之とあり。片衣小袴と云ふこと、此外にもところどころ見えたり。今の世の肩衣半袴の事と聞ゆ。
書き下し
二水記に云う、大永七年正月七日、早旦室町殿に出仕す、見物せしむ、道永以下悉く以て片衣小袴なり、当時先ず無為の間、然るべからざるの体なり、云云、武田出仕の体これに同じ、とあり。片衣小袴と云うこと、此外にもところどころ見えたり。今の世の肩衣半袴の事と聞こゆ。
現代語訳
『二水記』に「大永七年正月七日、早朝に室町殿(将軍の御所)へ出仕した。見物させた。道永(細川高国)以下、ことごとく片衣小袴の姿である。今のところまずは無事な間柄であるのに、ふさわしくない出で立ちである。云々。武田の出仕の姿もこれと同じ」とある。「片衣小袴」ということは、このほかにもあちこちに見える。今の世の肩衣半袴(かたぎぬはんばかま)のことと思われる。
解説
ここから公家の日記『二水記』の抜き書きが続く。二水記は戦国時代の公家、鷲尾隆康の日記である。大永七年(1527)正月、将軍御所への出仕で、管領の細川高国(法名道永)らがみな片衣小袴という略装で現れ、平時なのにふさわしくない、と日記の筆者は眉をひそめている。宣長がこれを書き留めたのは、「片衣小袴」が江戸時代の武士の礼装である肩衣半袴、いわゆる裃の前身だと見たからである。戦国の略装が、後には正式な礼装に格上げされた。服装の格式は時代とともに動くもので、今の当たり前にも起源がある。有職故実、つまり朝廷や武家の儀礼・装束の学は宣長の関心の一つで、古記録の断片からものの由来を拾い集めている。
関連する章句
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