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玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井

そのよしを云はんに、數數あり、一ッには、まづ師ノ字と鈴ノ字とは、楷書はさらにも云はず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二ッにはもし五十鈴ノ原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云ふべきにあらず。一の卷なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地ノ名なるを、五十鈴ノ原のあたりには、古、よりさる地ノ名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失ふと云へども、さすがに名は殘りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきやう無し。三ッには、かの長歌、もし大御神の宮づかへの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎭り座事のよしなどをこそ云ふべきに、その大御神の御事は、一言も云はずして、にはかに大宮づかへと云ふべきよし無し。始メより日の御子の御食つ國と云ひて、大宮づかへと云へるは、天皇の宮なること疑ひ無く、其うへ島の名高しと云ふまで、行宮より見渡したるけしきをもて云へるさま、いちじるし。

新字:そのよしを云はんに、数数あり、一ッには、まづ師ノ字と鈴ノ字とは、楷書はさらにも云はず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二ッにはもし五十鈴ノ原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云ふべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地ノ名なるを、五十鈴ノ原のあたりには、古、よりさる地ノ名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失ふと云へども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきやう無し。三ッには、かの長歌、もし大御神の宮づかへの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座事のよしなどをこそ云ふべきに、その大御神の御事は、一言も云はずして、にはかに大宮づかへと云ふべきよし無し。始メより日の御子の御食つ国と云ひて、大宮づかへと云へるは、天皇の宮なること疑ひ無く、其うへ島の名高しと云ふまで、行宮より見渡したるけしきをもて云へるさま、いちじるし。

書き下し

そのよしを云わんに、数数あり、一つには、まず師の字と鈴の字とは、楷書はさらにも云わず、草書も形似ざれば、誤るべきに有らず。二つにはもし五十鈴の原ならんには、さく鈴のとも、さくくしろとも、古き枕詞の有るをおきて、山のほとりならむからに、山のべのと、させるよしも無き事を云うべきにあらず。一の巻なる歌には、山のべの御井を見がてりとも有れば、山のべは必ず地の名なるを、五十鈴の原のあたりには、古よりさる地の名あること無し。すべてかの神宮のあたりに古き所は、さしもあらぬだに、その所は失うと云えども、さすがに名は残りて、かしこの書どもに見えざるは無きを、これはさばかり古く、名高き所なるに、見えざるべきよう無し。三つには、かの長歌、もし大御神の宮づかえの事を詠めるならば、必ずその大御神の鎮り座す事のよしなどをこそ云うべきに、その大御神の御事は、一言も云わずして、にわかに大宮づかえと云うべきよし無し。始めより日の御子の御食つ国と云いて、大宮づかえと云えるは、天皇の宮なること疑い無く、其うえ島の名高しと云うまで、行宮より見渡したるけしきをもて云えるさま、いちじるし。

現代語訳

その理由を言えば、いくつもある。一つには、まず「師」の字と「鈴」の字とは、楷書は言うまでもなく草書でも形が似ていないので、書き誤るはずがない。二つには、もし五十鈴の原であるなら、「さく鈴の」とも「さくくしろ」とも古い枕詞があるのを差し置いて、山のほとりだからといって「山のべの」と、特に理由も無いことを言うはずがない。巻一の歌には「山のべの御井を見がてり」ともあるので、「山のべ」は必ず地名であるが、五十鈴の原のあたりには昔からそのような地名は無い。およそ神宮のあたりの古い場所は、それほどでもない所でさえ、場所そのものは失われても名はさすがに残って、あちらの書物に見えないものは無いのに、これほど古く名高い所が見えないはずがない。三つには、あの長歌がもし大御神への宮仕えのことを詠んだのなら、必ずその大御神が鎮座なさっていることなどを言うはずなのに、大御神のことは一言も言わずに、いきなり「大宮仕え」と言うはずがない。初めから「日の御子の御食つ国」と言って「大宮仕え」と言っているのは、天皇の宮であることに疑いがなく、そのうえ「島も名高し」と言うところまで、行宮から見渡した景色によって言っている様子がはっきりしている。

解説

真淵の「五十鈴の原」説への反論の第一から第三である。宣長の論法は三つの層からなる。第一は字形で、「師」と「鈴」は楷書でも草書でも似ていないから写し誤りは起こりえないという、本文批判の基本。第二は言葉の用例で、五十鈴なら「さくすずの」などの枕詞があるのに「山のべの」と言うはずがなく、巻一にも「山のべの御井」とあるから地名に違いない、という論。第三は歌の文脈で、神宮の歌なら大御神の鎮座に触れるはずなのに一言もなく、「日の御子」「大宮づかえ」は天皇の宮を指す、という読み。一つの結論を、字・語・文脈という別々の証拠で支えるから崩れにくい。師の説を退けるのに感情ではなく証拠の積み重ねで臨むところに、宣長の学問の骨格がよく表れている。

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