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玉勝間 / 三の巻 五十師原山辺御井

倭姫ノ命の宮の事は、今里人の云ひ傳へは無けれども、もしさる說の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫ノ命の宮と、誤り傳へたりとせば、これ又かへりて、かの行宮の證とすべし。八ッには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考るに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給ひて、同月廿日乙酉に、還らせ給へり。然るを、此行幸は五月なりと云はれたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮時進贊者云云、とあるを見誤りて、萬葉の裏書に、五月云云と引るを、ふと見て、五月とは思ひ誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡ノ行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九ッには、萬葉一の卷に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の齋宮へ、おほやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立よられたるなり。さればこれも鈴鹿ノ郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思ふ。

新字:倭姫ノ命の宮の事は、今里人の云ひ伝へは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫ノ命の宮と、誤り伝へたりとせば、これ又かへりて、かの行宮の証とすべし。八ッには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考るに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給ひて、同月廿日乙酉に、還らせ給へり。然るを、此行幸は五月なりと云はれたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮時進賛者云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引るを、ふと見て、五月とは思ひ誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡ノ行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九ッには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おほやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立よられたるなり。さればこれも鈴鹿ノ郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思ふ。

書き下し

倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。

現代語訳

倭姫命の宮のことは、今は里人の言い伝えは無いけれども、もしそういう説があるなら、それもまた行宮に理由がある。持統天皇も女帝でいらっしゃったので、その行宮を倭姫命の宮と誤って伝えたとすれば、これもまたかえってあの行宮の証拠とすべきである。八つには、持統天皇の伊勢行幸は、日本書紀を調べると、持統六年三月六日辛未に都を出発なさって、同月二十日乙酉にお帰りになった。それなのに、この行幸は五月だと言われたのも誤りである。それは書紀に「同年五月乙丑朔庚午(六日)、阿胡の行宮においでになった時に贄(その土地の産物)を献上した者に云々」とあるのを見誤り、万葉集の裏書に「五月云々」と引いてあるのをふと見て、五月と思い誤られたのである。あの書紀の文は、三月の行幸の時に阿胡の行宮で贄を献上した者を、五月に賞されたことを記したものである。書紀を開いて見れば分かるはずだ。九つには、万葉集巻一の「山のべの御井を見がてり云々」の歌は、長田王が伊勢の斎宮へ公務で下られたついでに、名高い所なので、この御井をも見に立ち寄られたものである。だからこれも、鈴鹿郡は道筋ではなく遠いといっても差し支えない。大御神の宮の中であるなら、御井を見がてら出かけるというのは、どうかと思う。

解説

反論の最後、第八と第九である。第八では日本書紀そのものを開き、持統天皇の伊勢行幸が三月六日出発・二十日還御であったことを確かめる。真淵が五月としたのは、万葉集の裏書が引く「五月」の記事、つまり行幸中に贄を献上した者を五月に賞した記録を、行幸の日付と取り違えたためだ、と誤りの出どころまで突き止めている。孫引きではなく原典に当たれ、という教訓がそのまま示された形である。第九では長田王の歌を取り上げ、公務の道中に名所の御井へ寄り道したと読めば鈴鹿郡でも差し支えないと述べる。倭姫命の宮の伝えも行宮の誤伝と見れば証拠になる、と前段の論法をここでも用いる。九箇条を通して、師への敬意を失わずに誤りを一つ残らず指摘し切る、宣長の学問の厳しさが見える。

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