玉勝間 / 三の巻 巻頭たちばな三
立よればむかしの誰と我ながらわが袖あやしたちばなのかげこれは題よみのすずろ言なるを、とり出たるは、ことさらめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の卷の名つけむとてなむ。
新字:立よればむかしの誰と我ながらわが袖あやしたちばなのかげこれは題よみのすずろ言なるを、とり出たるは、ことさらめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の巻の名つけむとてなむ。
書き下し
立ちよればむかしの誰と我ながらわが袖あやしたちばなのかげ。これは題よみのすずろ言なるを、とり出でたるは、ことさらめきて、いかにぞやもおぼゆれど、例の巻の名つけむとてなむ。
現代語訳
「橘の木陰に立ち寄ると、昔の誰の袖の香かと、我ながら自分の袖が不思議に思われる」。これは題を与えられて詠んだとりとめのない歌であるのに、ここに取り出したのは、わざとらしくて、どうかとも思われるが、いつものように巻の名を付けようとしてのことである。
解説
玉勝間の各巻は、宣長自身の歌を巻頭に一首置き、その歌の言葉から巻の名を取っている。三の巻の名は「たちばな」である。歌は古今集の「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」を下に敷き、橘の陰に立ち寄ると自分の袖まで昔の誰かの袖のように思えてくる、と詠んだもの。宣長はこれを題詠の「すずろ言」、つまり取るに足りない歌だと断り、わざわざ出すのは気恥ずかしいが巻の名のためだ、と照れてみせる。随筆の体裁を整える小さな段だが、古歌を踏まえて詠むことが宣長にとって日々の営みであったこと、そして自分の歌を大仰に誇らない書き手の構えがうかがえる。
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 巻頭(からあゐ六)そのおのが歌は、からあいの末摘花の末ついに色にや出でん忍びかねてば 寄草恋と云う題にて詠めるなり。古今集なる、「我が恋をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出でぬべし」と云う歌にぞよく似たると、また云う人も有りなんか。
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『玉勝間』十の巻 巻頭(山菅十)はてもなし云うべき事は云えど云えどなおやますげの乱れあいつつ。この野べのすさびよ、いとかくはかなき手習いを、ものものしく、巻ごとに名つけて、歌をさえに添えたるは、我ながらだに、あやしく覚ゆるを、おのずからも見む人は、まして如何にことごとしと思うらん。さるは初めの巻のはしに、ゆくりかに歌一つ物して、巻の名つけつるままに、つぎつぎも一つ二つ然かせしが、おのずから習いになりて、必ずさらでは得あらぬわざの如なりもてきぬるを、今さらにたがえむも、さすがにて、例のごと物するになむ。そもそのおりおり、思いうるままに、詠み出でもし、あるいは他事に詠みたるが有るをも、取り出でなどするを、につかわしく覚ゆるも、無きおりなど、今書かむとすとては、筆とりながら、思いめぐらすに、例の口おそさは、とみにも出でこで、しりくわえ勝ちなるも、あじきなく物くるおしきわざになん。この山菅も、かろうじてほり出でたる、さる歌のきたなげさよ。
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