玉勝間 / 六の巻 巻頭からあゐ六
其おのが歌は、からあゐの末摘花の末つひに色にや出ん忍びかねてば寄草戀と云ふ題にて詠めるなり。古今集なる、「我戀をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出ぬべしと云ふ歌にぞよく似たると、又云ふ人も有りなんか。
新字:其おのが歌は、からあゐの末摘花の末つひに色にや出ん忍びかねてば寄草恋と云ふ題にて詠めるなり。古今集なる、「我恋をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出ぬべしと云ふ歌にぞよく似たると、又云ふ人も有りなんか。
書き下し
そのおのが歌は、からあいの末摘花の末ついに色にや出でん忍びかねてば 寄草恋と云う題にて詠めるなり。古今集なる、「我が恋をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出でぬべし」と云う歌にぞよく似たると、また云う人も有りなんか。
現代語訳
その私の歌というのは、「からあいの末摘花の末ついに色にや出でん忍びかねてば(からあいの末摘花の紅のように、忍びきれなくなれば、この恋もついには顔色に出てしまうだろうか)」というもので、「草に寄する恋」という題で詠んだのである。古今集にある「我が恋をしのびかねてばあしひきの山たちばなの色に出でぬべし(私の恋を忍びきれなくなったら、山橘の赤い実のように色に出てしまうに違いない)」という歌によく似ている、とまた言う人もいるだろうか。
解説
前段で問われた自作の歌の全体を示し、題と本歌との関係を先回りして断った一段である。寄草恋は、草に託して恋を詠む題詠の題で、末摘花の紅が「色に出づ」、つまり秘めた恋が表に出てしまうことを導く。宣長は、古今集の山橘の歌と似ていると言われるだろう、と自ら言い添える。似ていることを隠さず、むしろ先に言ってしまうところに、歌を古歌の型の中で詠むことへの宣長の構えが見える。宣長は生涯に数多くの歌を詠んだが、その多くは古歌の言葉に学んだ題詠である。模倣を恥じるより、どこから言葉を借りたかを明らかにしておくほうを大事にしたといえる。
関連する章句
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