玉勝間 / 二の巻 師の説になづまざる事
おのれ古典を解くに、師の說とたがへること多く、師の說の惡ろき事あるをば、わきまへ云ふ事も多かるを、いとあるまじき事と思ふ人おほかッめれど、これ即ちわが師の心にて、常にをしへられしは、後に善き考への出來たらんには、必ずしも師の說にたがふとて、なはばかりそとなむ、〓へられし。こはいとたふとき〓へにて、わが師の、世にすぐれ給へる一つなり。大かた古、をかむがふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめ盡すべくもあらず。又よき人の說ならんからに、多くの中には、誤りもなどか無からむ、必惡ろき事もまじらではえ有らず。其のおのが心には、今は古へのこころことごとく明らかなり、これをおきては、有るべくも有らずと、思ひ定めたる事も、おもひの外に、又人のことなる善き考へも出でくるわざなり。あまたの年を經るまにまに、さきざきの考、のうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしく成りもて行くわざなれば、師の說なりとて、必ずなづみ守るべきにも有らず。善き惡しきを云はず、ひたぶるに古きをまもるは、學問の道には、云ふかひ無きわざなり。
新字:おのれ古典を解くに、師の説とたがへること多く、師の説の悪ろき事あるをば、わきまへ云ふ事も多かるを、いとあるまじき事と思ふ人おほかッめれど、これ即ちわが師の心にて、常にをしへられしは、後に善き考への出来たらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそとなむ、〓へられし。こはいとたふとき〓へにて、わが師の、世にすぐれ給へる一つなり。大かた古、をかむがふる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめ尽すべくもあらず。又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤りもなどか無からむ、必悪ろき事もまじらではえ有らず。其のおのが心には、今は古へのこころことごとく明らかなり、これをおきては、有るべくも有らずと、思ひ定めたる事も、おもひの外に、又人のことなる善き考へも出でくるわざなり。あまたの年を経るまにまに、さきざきの考、のうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしく成りもて行くわざなれば、師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにも有らず。善き悪しきを云はず、ひたぶるに古きをまもるは、学問の道には、云ふかひ無きわざなり。
書き下し
おのれ古典を解くに、師の説とたがえること多く、師の説の悪ろき事あるをば、わきまえ云う事も多かるを、いとあるまじき事と思う人おおかんめれど、これすなわちわが師の心にて、常におしえられしは、後に善き考えの出で来たらんには、必ずしも師の説にたがうとて、なはばかりそとなむ、教えられし。こはいとたっとき教えにて、わが師の、世にすぐれ給える一つなり。大かた古をかむがうる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならんからに、多くの中には、誤りもなどか無からむ、必ず悪ろき事もまじらではえ有らず。そのおのが心には、今は古のこころことごとく明らかなり、これをおきては、有るべくも有らずと、思い定めたる事も、おもいの外に、また人のことなる善き考えも出で来るわざなり。あまたの年を経るまにまに、さきざきの考えのうえを、なおよく考えきわむるからに、つぎつぎにくわしく成りもて行くわざなれば、師の説なりとて、必ずなずみ守るべきにも有らず。善き悪しきを云わず、ひたぶるに古きをまもるは、学問の道には、云うかいなきわざなり。
現代語訳
私は古典を解くのに、師の説と違うことが多く、師の説に悪いところがあるのを区別して言うことも多いのを、まったくあってはならないことと思う人が多いようだが、これこそわが師の心であって、常に教えられたのは、後に良い考えが出てきたなら、必ずしも師の説と違うからといって遠慮するな、ということであった。これはたいへん尊い教えで、わが師の世に優れておられた点の一つである。だいたい古を考えることは、決して一人二人の力で残らず明らかにし尽くせるものではない。また優れた人の説だからといって、多くの中にはどうして誤りがないことがあろうか。必ず悪いところも混じらずにはいない。その人自身の心では、今や古の心はことごとく明らかだ、これ以外にはありえないと思い定めたことも、思いのほかに、また他の人の異なる良い考えも出てくるものである。多くの年を経るにしたがって、前々の考えの上をさらによく考え究めるので、次々に詳しくなっていくものなのだから、師の説だからといって必ずこだわって守るべきものでもない。良し悪しを言わず、ひたすら古いものを守るのは、学問の道ではふがいないことである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 師の説になづまざる事またおのが師などの悪ろき事を云いあらわすは、いともかしこくはあれど、それも云わざれば、世の学者その説にまどいて、長く善きを知るご無し。師の説なりとして、悪ろきを知りながら、云わずつつみかくして、よさまにつくろいおらんは、ただ師をのみたっとみて、道をば思わざるなり。宣長は、道を尊み古を思いて、ひたぶるに道の明らかならん事を思い、古の意の明らかならん事をむねと思うが故に、わたくしに師をたっとむことわりの欠けむ事をば、えしもかえり見ざる事あるを、猶悪ろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかた無し。われは人にそしられじ、善き人に成らむとて、道をまげ、古の意をまげて、さてあるわざはえせずなん。これすなわちわが師の心なれば、かえりては師をたっとむにも有るべくや。そはいかにも有れ。
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『玉勝間』二の巻 わがをしへ子にいましめおくやう吾に従いて物まなばむともがらも、わが後に、また善き考えのいできたらむには、必ずわが説にななづみそ。わが悪しき故を云いて、善き考えをひろめよ。すべておのが人を教うるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用うるには有りける。道を思わで、いたずらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事同じ人の説の、こことかしこと行きちがいて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどわしくて、大かたその人の説、すべて浮きたる心地のせらるる、そは一わたりはさる事なれども、なおさしも有らず。初めより終りまで、説のかわれる事無きは、なかなかにおかしからぬかたも有るぞかし。初めに定めおきつる事の、ほどへて後に、またことなるよき考えの出で来るは、常にある事なれば、初めとかわれる事あるこそよけれ。年をへて、学問進みゆけば、説は必ずかわらでかなわず。またおのがはじめの誤りを、後に知りながらは、つつみかくさで、きよく改めたるも、いと善き事なり。殊にわが古学の道は、近きほどより開けそめつる事なれば、すみやかに尽くは考えつくすべきに有らず。人を経、年を経てこそ、つぎつぎに明らかには成りゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なる事は、もとより有らではえ有らぬわざなり。そは一人の生のかぎりの程にも、つぎつぎ明らかに成りゆくなり。さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、その人の定まれる説とはすべかりける。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事ただしまたみづからこそ、初めのをば悪ろしと思いて、改めつれ、またのちに人の見るには、なお初めのかたよろしくて、後のはなかなかに悪ろきも無きにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人の心になむ。
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『玉勝間』二の巻 おのれあがたゐの大人の〓〓を受けしやうされば道を説き給える事も、こまかなる事し無ければ、大むねもいまださだかにあらわれず、ただ事のついでなどに、はしばしいささかずつのたまえるのみなり。またからごころを去れる事も、なお清くはさりあえ給わで、おのずから猶その意に落つる事も、まれまれにはのこれるなり。
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『玉勝間』二の巻 あらたに云ひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事大かた世の常にことなる、新しき説をおこす時には、善きあしきを云わず、まず一わたりは、世の中の学者ににくまれそしらるるものなり。あるはおのがもとよりより来つる説と、いたく異なるを聞きては、善きあしきを味わい考うるまでも無く、始めよりひたぶるに捨てて、取りあげざる者もあり。あるは心のうちには、げにと思うふしも多くある物から、さすがに近き人のことに従わむ事のねたくて、善しとも悪しとも云わで、ただうけぬかおして過ごすたぐいも有り。あるはねたむ心のすすめるは、心にはよしと思いながら、その中の疵をあながちにもとめ出でて、すべてを云いけたむとかまうる者も有り。大かた古き説をば、十が中に七つ八つは悪しきをも、悪しき所をばおおいかくして、わずかに二つ三つのとるべき所の有るをとりたてて、力のかぎりたすけ用いんとし、新しきは、十に八つ九つよくても、一つ二つのわろきことを云いたてて、八つ九つの善き事をも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用いず、人にも用いさせじとする、こは大かたの学者のならいなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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