玉勝間 / 二の巻 うつほ物語の事
さて又ふるき一本には、たづのむら鳥を第十一とし、初秋を第十二とし、國ゆづり三卷を、第十六第十七第十八とし、樓ノ上、の上下を、第十九第廿とせり。これらのついでは、いづれ善からむ。おのれいとまなくて、すべていまだえよくも考へず、見ん人猶かむかへて定めてよ。そもそも右の考へどもは、同じ尾張ノ國人淺井ノの某が、此物語を好みて、善本に依て、考へ置きたるに依れるなりと、道麻呂云へりき。
新字:さて又ふるき一本には、たづのむら鳥を第十一とし、初秋を第十二とし、国ゆづり三巻を、第十六第十七第十八とし、楼ノ上、の上下を、第十九第廿とせり。これらのついでは、いづれ善からむ。おのれいとまなくて、すべていまだえよくも考へず、見ん人猶かむかへて定めてよ。そもそも右の考へどもは、同じ尾張ノ国人浅井ノの某が、此物語を好みて、善本に依て、考へ置きたるに依れるなりと、道麻呂云へりき。
書き下し
さてまたふるき一本には、たづのむら鳥を第十一とし、初秋を第十二とし、国ゆずり三巻を、第十六第十七第十八とし、楼の上の上下を、第十九第廿とせり。これらのついでは、いずれ善からむ。おのれいとまなくて、すべていまだえよくも考えず、見ん人猶かんがえて定めてよ。そもそも右の考えどもは、同じ尾張の国人浅井の某が、この物語を好みて、善本に依りて、考え置きたるに依れるなりと、道麻呂云えりき。
現代語訳
さてまた、古いある一本では、たづの村鳥を第十一とし、初秋を第十二とし、国譲の三巻を第十六・第十七・第十八とし、楼の上の上下を第十九・第二十としている。これらの順序はどちらが良いのだろうか。私は暇がなくて、まだ十分には考えていない。見る人はさらに考えて定めてほしい。そもそも右の考えは、同じ尾張国の人である浅井某がこの物語を好んで、善本によって考えておいたものによったのだと、道麻呂は言っていた。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 うつほ物語の事うつほの物語、今の世の板本は、巻の名たがえる有り、その次第もみだれて、読みつづけがたし。ここに田中の道麻呂が、ふるき善本によりて、正したりし次第は、第一俊蔭、第二並藤原の君、第三並ただこそ、第四梅の花笠、一名春日もうで、第五さがの院、第六吹上の上、第七吹上の下、第八祭の使、第九菊の宴、第十あて宮第十一初秋、一名とばかりの名月、一名すまいの節会、第十二たづの村鳥、第十三蔵開上、第十四蔵開中、第十五蔵開下、第十六楼の上、上、第十七楼の上、下、第十八国ゆずり上、第十九国ゆずり中、第二十国ゆずり下、かくの如くにて、合わせて廿巻なり。然るに今の本は、嵯峨の院の巻を蔵開の下とし、吹上の巻の上下のついでを誤り、蔵開の下を国ゆずりの下とし、楼の上の巻の上下のついでを誤り、国ゆずり上と中と次第を誤り、同じく下をさがのいんとす、これら皆誤りなり。然れば今の本の、蔵開下はさがのいんなり、吹上の上は下、下は上なり、国ゆずり下は蔵開下なり、楼の上、上は下、下は上なり、国ゆずり上は中、中は上なり、さがのいんは国ゆずり下なり、と心得べし。また今の本は、わたくしに、一巻なるをも上下にわけ、あるは上下なるを、また分け分けなどして、合わせて三十巻とせり。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事ただしまたみづからこそ、初めのをば悪ろしと思いて、改めつれ、またのちに人の見るには、なお初めのかたよろしくて、後のはなかなかに悪ろきも無きにあらざれば、とにかくにえらびは、見む人の心になむ。
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『玉勝間』四の巻 前後と説のかはる事同じ人の説の、こことかしこと行きちがいて、ひとしからざるは、いづれによるべきぞと、まどわしくて、大かたその人の説、すべて浮きたる心地のせらるる、そは一わたりはさる事なれども、なおさしも有らず。初めより終りまで、説のかわれる事無きは、なかなかにおかしからぬかたも有るぞかし。初めに定めおきつる事の、ほどへて後に、またことなるよき考えの出で来るは、常にある事なれば、初めとかわれる事あるこそよけれ。年をへて、学問進みゆけば、説は必ずかわらでかなわず。またおのがはじめの誤りを、後に知りながらは、つつみかくさで、きよく改めたるも、いと善き事なり。殊にわが古学の道は、近きほどより開けそめつる事なれば、すみやかに尽くは考えつくすべきに有らず。人を経、年を経てこそ、つぎつぎに明らかには成りゆくべきわざなれば、一人のときごとの中にも、さきなると後なると異なる事は、もとより有らではえ有らぬわざなり。そは一人の生のかぎりの程にも、つぎつぎ明らかに成りゆくなり。さればそのさきのと後のとの中には、後の方をぞ、その人の定まれる説とはすべかりける。
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『玉勝間』八の巻 かけつかさうつほ物語たずのむら鳥の巻に、兼官の事を、かけつかさとあり。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つ初めのくだり、男のきたりける云云、男の、のの文字ひがことなり。真名本に無きぞ宜しき。男のとては、云云して歌を書きてやる事、女のしわざになるなり。月やあらぬちょう歌の条、ほいにはあらで、この詞聞えず。真字本に、穂にはと有るも、心ゆかず。穂には出でずなどこそ云え、ほにはあらでなどは、聞きつかぬ心地す、猶もじの誤りなどにや。うつの山のところ、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかえではしげりて云云、かえではのはは、てにおはなり。上の道はのはと重ねて、こうように云う、一つの格なり。「秋はきぬ紅葉はやどに降りしきぬ道ふみ分けてとう人は無し、など、三つも重ねて云える、この類多し。真名本に葉と書けるによりて、然か心得ては、いとつたなき文になるなり。「君がためたおれる枝は云云。この歌は、君にわが心ざしの深きにかないて、春ながらも、秋のごとく色ふかく染めたり、と云う意なるべし。注どもに、秋と云う言になずみて、女の心のうつろう事に心得たるはいかが。さてはかえしの歌めずらしげ無し。又女の心を疑うべきよしも、上の詞に見えず。「いでていなば心かろしと云云。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つむかし男久しう云云、真名本に、云えりければの下に、女とあり。むかし女の、あだなる男の云云、女のの、の文字、ひが事なり。すべてのちょう辞は、心得有りて、おくべき所と、必ず置くまじき所との有る事なるを、これはさるわきまえをも知らぬ、後の人の、何心も無く加えたるなるべし。真名本に、女のと云う事無し。それも女と云う言足らず。むかし男、女のまだ世へずと云云、このくだり詞ととのわず。物聞えたるを、後に聞きて、などこそ有るべけれ。
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