玉勝間 / 二の巻 鏡ノ女王額田ノ王
万葉二の卷の十のひらに、天皇の賜へる御歌、御答に奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。此女王此時は、大和ノ國に居住れたりと聞えたれば、故〓の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、內大臣の聘ひ給へるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうへの事にても有べし。天武紀に、十二年に、天皇の、此女王の病をとひ給ひし事、又その薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田ノ王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。萬葉四の卷の十三のひらに、思近江天皇歌、これその證なり。其次に鏡女王の歌有。これ又此女王も、天智天皇に娶れたる證にて、妹ノ王と共に思ひ奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におはしましし程より、額田ノ王に御心をかけられたりし事、同一の卷の十四のひらなる御歌にて知らる。其御歌に、人づまゆゑにと詠み給へるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の說はたがへり。さて此御歌の此御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市ノの皇女をうみ奉られしなり。
新字:万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜へる御歌、御答に奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。此女王此時は、大和ノ国に居住れたりと聞えたれば、故〓の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘ひ給へるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうへの事にても有べし。天武紀に、十二年に、天皇の、此女王の病をとひ給ひし事、又その薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田ノ王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。其次に鏡女王の歌有。これ又此女王も、天智天皇に娶れたる証にて、妹ノ王と共に思ひ奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におはしましし程より、額田ノ王に御心をかけられたりし事、同一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。其御歌に、人づまゆゑにと詠み給へるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがへり。さて此御歌の此御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給ひて後に、天武天皇にはめされて、十市ノの皇女をうみ奉られしなり。
書き下し
万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜える御歌、御答えに奉れる歌、これ鏡女王もめされたるなり。この女王この時は、大和の国に居住まれたりと聞こえたれば、故郷の鏡の里には、これよりさき、もしは後にすまれたるなるべし。右の歌の次に、内大臣の聘い給えるは、いまだ天皇にはめされざりしほどの事か、めされたるうえの事にても有るべし。天武紀に、十二年に、天皇の、この女王の病をとい給いし事、またその薨を記されたるも、天智天皇の妃なるが故なり。さて額田の王も、はじめは天智天皇にめされたりしなり。万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌、これその証なり。その次に鏡女王の歌有り。これまたこの女王も、天智天皇に娶られたる証にて、妹の王と共に思い奉れるなり。さて天武天皇、皇太子におわしましし程より、額田の王に御心をかけられたりし事、同じく一の巻の十四のひらなる御歌にて知らる。その御歌に、人づまゆえにと詠み給えるは、天智天皇の妃なるが故なり、考の説はたがえり。さてこの御歌のこの御詞にても、額田王もはじめには、天智天皇のめしたりし事知るべし。かくて天智天皇かくれさせ給いて後に、天武天皇にはめされて、十市の皇女をうみ奉られしなり。
現代語訳
『万葉集』巻二の十丁に、天皇(天智天皇)が賜った御歌と、御答えに奉った歌があり、これは鏡女王も召されていたということである。この女王はこの時は大和国に住んでおられたと思われるので、故郷の鏡の里には、これより前か、あるいは後に住まれたのであろう。右の歌の次に、内大臣(藤原鎌足)が求婚なさった歌があるのは、まだ天皇に召されていなかったころのことか、召された後のことでもあろう。『日本書紀』天武紀に、天武十二年に天皇がこの女王の病を見舞われたこと、またその死を記されているのも、天智天皇の妃だからである。さて額田王も、はじめは天智天皇に召されていたのである。『万葉集』巻四の十三丁に「近江天皇を思ひて作る歌」とあるのがその証である。その次に鏡女王の歌がある。これもまた、この女王も天智天皇に娶られた証で、妹の王とともに天皇をお慕い申し上げたのである。さて天武天皇が皇太子でおられたころから額田王に御心をかけておられたことは、同じく巻一の十四丁にある御歌で知られる。その御歌に「人妻ゆえに」とお詠みになったのは、天智天皇の妃だからである。『万葉考』の説は誤っている。さてこの御歌のこのお言葉によっても、額田王もはじめは天智天皇が召されていたことを知るべきである。そして天智天皇がお亡くなりになった後に天武天皇に召されて、十市皇女をお生みしたのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 鏡ノ女王額田ノ王万葉集に、鏡の女王、また額田の王とある、二人の女王の事、まぎらわし。まず鏡女王を、鏡王の女とあるは、皆誤りなること、額田の王とは別なる事などは、師の考に弁えられたるが如し。さて古は、女王をも、分けて某の女王とは云わず、男王と同じく、ただ某の王と云えり。かくて万葉の頃にいたりては、女王をば、皆女王と記せるに、この額田の王に女の字の無きは、古き物に記せりしままに記せるなるべし。鏡の女王は、父の名とまぎるる故に、古くも女王と記せるなるべし。さて右の二女王、ともに鏡の王と云いし人の女にて、鏡の女王は姉、額田の王は弟と聞こえたり。父王は、近江の国の野洲の郡の鏡の里に住居われしによりて、鏡王と云えりと見ゆ。このほども、居住を以て呼べる名の例多し。かくてその女子も、もと父の郷に居住われしによりて、同じく鏡の王と呼べるなり。すべて地の名をもてよべるは、父子兄妹など、同じ名なる多し。そは事にふれてまぎるるおりなどは、女子の方をば、鏡の女王と書きてわかち、つね口には、京人などは、ただ鏡の王と云いしなり、これ古のなべての例なり。さてこの姉妹ともに、天智天皇に娶られたる人なり。
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『玉勝間』七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌また湯の字をも、謁に誤れるを、そは一本に湯と有るなり。吾瀬子とは、天智天皇の、この時皇太子にてましますをさして詠まれたり。太子もこの幸に供奉し給える趣書紀に見えたり。さて額田の王は、天智天皇の娶りたりし女王なること、桜の落葉の巻に云えるがごとし。さるによりて、わがせことはよみ給えるなり。為兼は、すがねと訓むべし。この句は、この度いつかしが本に、立ち給うべき事を詠み給えるなり。然るをせりけんと訓みては、往時のことなれば、物どおし。五可新何本は、竈山の神社の厳櫃の本なり。かくてこの歌は、この女王も太子に従い奉りて、行き給えるにて、太子の、竈山の社に詣で給わむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて、詠み給えるさまにて、一首の意は、かくては竈山に霜ふかくて、いつかしが本に、立ち給いがたかるべければ、吾兄子が、わずらいなく立ち給うべきために、しばし霜の消えむを待ちて行けかしとなり。
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『玉勝間』七の巻 万葉集一の巻なる莫囂円隣の歌万葉一の巻に、紀の温泉に幸せる時、額田王の作れる歌、莫囂國隣之、霜木兄氏湯氣、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本とあり。莫囂は、かまと訓むべし。かまをかく書けるよしは、古に、人のものを云うを制して、あなかまと云えるを、そのあなを省きて、かまとのみも云いつらむ。そは今の世の俗言にも、囂しきを制して、やかましと云うと同じ。やかましは囂しと云うことなれば、かまと云いて、莫囂と云う意なり。さてかま山と云うは、神名帳に、紀伊の国名草の郡、竈山の神社、諸陵式に、同郡竈山の墓、と見えたるこれなり。この御墓は、神武天皇の御兄、五瀬命の御墓にて、古事記・書紀にも見えたり。神社も御墓も、古の熊野道近きところにて今も有り。國隣は、やまと訓むべし。山は、隣の国の境なる物なれば、かくも書くべし。國の字は、本には圓と有るを、一本に國と有るなり。霜の字、本に大相と有るは、霜の草書を、大相の二字と見て、誤れるなり。そもそもこの幸は、書紀の斉明天皇の巻に、四年冬十月庚戌朔甲子、紀の温湯に幸すと有りて、十一月までも、かの国にとどまりませりしさま見えたれば、霜の深くおく頃なり。木兄氏は、本には、木の字を七に誤り、或る本には、土にも云にも誤り、氏の字は、爪に誤れり。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井錦をはれるとは、かの行幸は、六年の三月なれば、桜桃などの花を云えるか。又は大宝二年十月にも、同じ天皇、参河国に行幸有りしかば、其時にてもあらむか。もし然らば行宮は、参河への道次の行宮にて、錦は紅葉なるべし。とにかくに長歌のよう、女房たちの宮づかえのさまを詠めりと聞こゆれば、必ず持統天皇なるべし。さて此あたり、今はすべて松山にて、あだし木はすくなし。かの赤人屋敷と云うは、山辺村より南の方へいささかのぼりて、高き所に在りて、たても横も半町には足らぬ程のたいらにて、今は畠なり。其西北のすみの所に、石垣と云う物も有りしを、五六十年ばかりさきに、里人の埋みしとぞ。又此所の土の中より、碁石の如くなる、小さき石に仏経の文字を彫りたるを、おりおり掘り出ること有りと云えり。さてそのあたりより、伊勢の海よく見渡されて、ここより見れば、まことに水門なすと詠めるさまなり。尾張参河の山山も、伊勢の山山島島も、よく見え、高岡川という川、村の東を流れて、ま近く見おろさるるなど、すべてかの長歌のけしきに、よくかなえる所なり。御井は、そこより南の、すこし西の方へくだりたる、谷あいの田の中に有り。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井倭姫の命の宮の事は、今里人の云い伝えは無けれども、もしさる説の有らば、それはた行宮によしあり。持統天皇も女帝にましませば、其行宮を、倭姫の命の宮と、誤り伝えたりとせば、これ又かえりて、かの行宮の証とすべし。八つには、持統天皇の伊勢の行幸は、書紀を考うるに、六年三月六日辛未に、京をたたせ給いて、同月廿日乙酉に、還らせ給えり。然るを、此行幸は五月なりと云われたるも誤りなり。そは紀に、同年五月乙丑朔庚午、阿胡の行宮に御しし時贄を進りし者に云云、とあるを見誤りて、万葉の裏書に、五月云云と引けるを、ふと見て、五月とは思い誤られたるなり。かの紀の文は、三月の行幸の時に、阿胡の行宮にて、贄をたてまつりし者を、五月に賞せられたる事をしるせるなり、かの紀をひらき見て知るべし。九つには、万葉一の巻に、山のべの御井を見がてり云云の歌は、長田王、伊勢の斎宮へ、おおやけ事にて下られたるついでに、名高き所なれば、此御井をも見に立ちよられたるなり。さればこれも鈴鹿の郡は路次にあらず遠しとても、妨無し。大御神の宮の中ならむには、御井を見がてら物せむ事、いかがとぞ思う。
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『玉勝間』六の巻 神明鏡神明鏡とて、神武天皇より、後花園の天皇の御代までの事どもをしるしたる、上下二まきのふみ有り。それに、神功皇后、戒定慧の箱を、摩白浜に埋み、松の枝を折り、逆にその上に立て給う、注とす。これに依りて箱崎と云うなり。皇后謡いて曰く、箱崎の千代の松原石畳くつれむ世まで君はましませ云云。或いは皇后を、安曇磯童思いかけ奉りける由聞こし召して、皇后御歌に云わく、衣だに二つもあらば赤裸山に一つはかけてまし物を云云。或いは云う、箱崎の松の上に、白幡四流、赤幡四流降り下る、長さ八丈なり。故に八幡と号す。桓武天皇、この御時、また万葉集の歌撰せらる。内舎人浜成承りて、三千余首撰び加え奉りたまうなり。高丘の親王も、春宮を取られさせ給いて弘法の御弟子と成りて、真如親王と申す。御歌に云わく、云うならく奈落の底に落ちぬれば刹利も戎駄もかわらざりけり。大師嘆き給いて、返歌に云わく、かくばかり達磨を知れる人なれば多駄迦多までも成りのぼりけり。承和六年、小野篁隠岐国へ流されけり。同七年沙汰有りて、一仰三仰不来人待書暗雨降恋乍寝、と云い遣わしけり。月夜には来ぬ人またるかき曇り雨だにふらばわびつつもねん、と読みたりければ、有り難く読みたりとて、御赦免あり。大かたこうようのみだりなる事どもをしるしたる書なり。
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